ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

涙そうそう

南の島 OKNWにようやく降り立った。これから全く新しい生活が始まる。でもその期待と不安よりも、まだこれまでの生活の思い出や余韻が大きい。前の住所からの引越しは、場所が場所だけに10日間かかった。荷物を引っ越し業者に出してから南の島に着くまでに、その期間かかったためだ。その間、途中で車を東京からフェリーで送り、生身の人は、知人・友人・親戚の家やホテルを泊まり渡った。そうした放浪の旅がさらに思い出と余韻を強くさせた。

 泊めてくれた方々は皆手厚く壮行してくれた。餞別をいただいたり、ご馳走していただいたり。それ以外にも、子供の学校や保育園の関係者、おいらの職場の関係者、そのほかの知人が数多く送別会を開いてくれた。こんなに周囲の方々が愛情を持って接してくれていたことを深く感じた。特に妻と子供は、深い付き合いの人が多かったんだなと改めてわかり、嬉しい思いと離れてしまう寂しい思いと、様々な感情が混ざり合った期間だった。そんなわけなので、まだ新生活へ気持ちが移れていないのが本音なのである。

 そうした気持ちに加え、南の島なので今はまだ観光地に遊びに来た気分である。昨日は、近所のビーチで少し遊び、島の地元料理、みそ汁定食を食べた。このままずっと観光だったらいいのにな、といっそ思いもしてしまう。本当はまだ不安が大きい。引っ越しが決まった時から続く、移住していいのだろうかという気持ちが今もまだ残っている。でももう実際に移住してしまった。後戻りできない。頑張るしかないのだ。

 朝起きると自分が今どこにいて、何をしているのか一瞬わからなくなる。その感覚は、入院している時と少し似ている。普段の生活とは違う聞きなれない音、匂い、光加減、寝心地、どれもが違和感がある。それがまた少し憂鬱な気分にさせてしまうのかもしれない。ただ入院の時とはっきり違うのは、隣に家族が寝ていることだ。今いるのは、病院ではなく新しい家なのである。だからもっと安心していいのだ。入院せずに家族と過ごしていければ、どんな場所だって楽しみがある。入院しなければなんだって自由にできる。それは本当に素晴らしいことだ。よし、今日もまたビーチに遊びに行こう。

心臓に毛を生やそう

4年ぶりに学会に参加して研究発表を行った。昨年と一昨年は、入院していたため参加できなかった。学会参加だけでなく、ここ数年おいらは闘病に精一杯で、論文も出せず、調査もできず、まともに研究活動をしていなかった。論文は科学雑誌に投稿するものの、落とされ続けていた。そして昨年の地獄入院以降は、研究はおろか日常生活も介護が必要になり、もはや研究者として復帰するのは絶望的に思われた。

 長い間のブランクで、すっかり研究に対する感が鈍ってしまった。先日の学会は、鈍った研究力を少しでも取り戻そうという意味も込めて臨んだのだが、実際は甘くなかった。もはやおいらは、学会において忘れられた人物だった。触れてはいけない、関わりたくない存在になってしまった。何人かの知り合いにあったものの、皆会ったことを後悔するような、面倒臭そうな雰囲気を感じられた。あるいは、気づかないふりをしてすれ違っていった。そして肝心の発表も、聴衆はほとんど興味がなさそうだった。

 本当は、どれもおいらの被害妄想で、気のせいなのかもしれない。ただはっきりしているのは、おいらの研究者としての実力は現状相当低いということだ。他の研究者の発表内容はどれもハイレベルで、わからないものが多かった。でもそれでうじうじいじけて、病気のせいにしては心臓に申し訳なさすぎる。心臓も怒ってまた調子悪くなってしまうだろう。せっかく4月から職が得られたのだから、いじけている暇があったら、もっと勉強して少しでも追いつくようにすればいいのだろう。でも正直気が重い。新しい職場では、おいらよりはるかに若い研究者がバリバリ仕事している。先日の発表では、その方の発表も聞いたのだが、難しくてほとんど理解できなかった。きっとおいらが務め始めたら、あまりに無知で呆れられてしまうだろう。上司の先生も期待はずれで、がっかりするに違いない。

 今まで大好きだった研究がこんなに重く感じるのは初めてなことだ。でも、論文を書いて雑誌に掲載された時の喜びは、どんな嫌なことも吹き飛ばしてくれるだろう。おいらは、論文は人類が書く文章の中でも最も崇高な価値がある文ではないかと思っている。一つの論文を完成させるのには並大抵の労力ではできない。厳密な調査や実験によってデータを得て、科学的に適切な方法で分析し、その結果を簡潔かつ論理的に説明する。そして同業の研究者によって、厳しく審査される。そうすることにより、限界までミスをそぎ落とし、客観性と普遍性のある成果となる。だから一つの論文を発表できた時は、とてつもない達成感を感じる。仕事は辛いことも多いかもしれないけど、やり続けていればいつかまた論文を発表できるだろう。いっそ論文、論文と念仏のように唱えて、仕事に励むのだ。たとえ気狂いだと思われても、心臓に毛を生やして気にせず平然としていよう。

怪しい雲行き

やはりデスゾーンの攻略は難しいのだろうか。二ヶ月前にプレドニンを8mg/日に減量してから、タンパクの値が下がり続けている。2月の検診の時も、そして先日の3月の検診の時も下がっていた。TP6.1、アルブミン3.7、IgG709になった。アルブミンは昨年の7月以来4以上を維持できていたが、ついに3台に落ち込んだ。さらに気がかりなのは、ヘモグロビンが11.9とかなり下がってしまったことだ。血清鉄も27となり(正常は44以上)、完全に鉄欠乏性の貧血状態だった。そして、この数日胃のあたりがもたれ、不快感がある。胃腸が再び炎症を起こし、タンパク漏れや出血を起こしている可能性がある。

 昨年の地獄入院の時と比べれば、まだはるかに良いので回復する見込みは十分あると思う。腎臓や肝臓の値は非常に良い。むくみもまだ出ていない。甘酒を飲み、胃腸に良い食べ物を食べて、体をいたわればなんとか持ちこたえられるかもしれない。ただ、これから南の島に向けた引越しのため、外食が多くなる。荷物を送ってから南の島に到着するまで10日ほどかかるため、その間親戚や知り合いの家を渡り歩いて、主に外食で過ごすことになるからだ。

 引っ越して早々入院だけは何としても避けたい。やっと手にした職なので、初っ端からつまづきたくない。引っ越しも遠いので、楽ではない。引っ越してすぐ、落ち着く暇もなく、おいらが入院してしまっては家族も共倒れになってしまうだろう。これが厄年の恐ろしさなのだろうか。昨年の前厄でもう十分苦しんだのだから、どうか今年は平穏に過ごさせてほしい。神様お願い。おいら、頑張って仕事するよ。贅沢は言わないよ。多少しんどいことがあってもいいから、せめて入院だけはせずにいさせてほしいよ。 

断捨離は心臓に悪い

南の島へ向けた引越準備を進めている。できるだけ荷物を減らそうと、思い切って本や過去の資料などを処分することにした。紙の資料はできるかぎりスキャナーで取り込んで電子化し、実物は廃棄した。おいらは、4年前からの第2の闘病時代からの血液検査の結果を全部とっておいた。300枚以上にもなったが、それらも全て電子化した。

 4年前の最初に受診したときと、もっとも最近の検査結果を比較すると、おおむねよくなっていてうれしい。たとえば血中蛋白量(TP)は4.1→6.6、アルブミンは2.4→4.1、IgGは466→753と蛋白関係は軒並改善している。4年前はとても低くここから蛋白漏出性胃腸症が判明した。肝臓系もGOTが31→22、GPTが28→11、γGTPが81→51と改善した。4年間の中で最もひどいときにはγGTPが1084になったこともあった。少し悪くなっているのもあり、たとえばヘモグロビンは17.9→13.1、アミラーゼは72→150、クレアチニンは0.78→0.89とそれぞれ悪化しており、まだ昨年の地獄入院の影響を引きずっている。

 こんな感じで、4年間で受けたのべ200回以上の血液検査の記録が全てある。生物学者としては、いつかそれらのデータを分析して、各検査項目の間の関連性を調べて、蛋白漏出性胃腸症が再発する兆候がどの項目から読み取れるかを明らかにしたいと思っている。そして、その分析結果をいつか論文にまとめて、医学雑誌に投稿するのだ。おそらく、医者でもない患者自身が自らの検査結果をもとに論文を書いて投稿するなんて、ほぼ前例がないだろう。もしそんな論文が書けたら、自分の専門の植物の研究論文よりわくわくしちゃうな。

 紙の資料はいくらでも電子化して保存できるけれど、電子化できないものも沢山ある。そして、電子化できないものほど大切だったりする。友人、知人、家族との思い出が詰まったものも、たくさん処分した。それはじわじわとこたえてくるものだった。そのためなのか、昨晩は夜中に胸が痛くて目が覚めた。起きてネットで症状を調べてみると、異型狭心症というものに症状が似ていた。明け方など安静にしているときに起こる胸痛で、精神的ストレスが原因になったりするらしい。おいらの心臓くんは捨てないでと叫んでいるのだろうか。ごめんよ。でも頭にはしっかり記録したからね。

所信表明

今朝、ニュースで優生保護法についてやっていた。現在は廃止されているが、平成8年までは施行されていたそうで、特定の障害を持つ人に対し、本人の承諾なしに不妊手術を受けさせることができる法律だった。先天性心疾患は遺伝性は低いものの、一昔前だったらおいらもまた手術を受けさせられる立場だったかもしれない。こうした法律があるように障害者への差別はいつの時代もなくならない。

 一方で、自分が障害者の立場になって以来、この国の福祉にとても恩恵を受けている。その手厚さに改めて驚くほどである。2年ほど前に障害者手帳を取得してから、様々な場面で手帳を示して、割引をしてもらっている。公共の博物館や美術館、交通機関、さらには温泉まで。おいら自身だけでなく、時には付き添い人も割引対象になるときがある。また、福祉医療制度によって、現在医療費のほとんどは支給されている(入院時の食事代など保険適用にならないものは除く)。また、昨年から障害基礎年金も受給できるようになった。税金の障害者控除もある。細かいところでは、電車などの優先席に座れたり、スーパーなどの駐車場の障害者用のスペースに停められたりもする。実際、電車で立ち続けたり、店舗から遠いところに車を停めて歩くのはおいらにとってかなりしんどいことなので大変助かっているのだが、こんなに優遇してもらっていいのだろうかと思わなくもない。

 こんな待遇を聞くと、障害者は社会の負担だと心のどこかで思ってしまう人もいても仕方ないかもしれない。おいら自身も、申し訳なく思いもする。だからというわけではないが、おいらは障害者の権利や差別撤廃に向けて声高々に主張することができない。障害者のことを負担に思ったり、気の毒やかわいそうと思ったり、正直自分は障害を持ちたくないという気持ちは自然のことのように思う。それを差別だと非難しては、余計に解決が困難になりそうだ。障害はやっぱりしんどいし、持っているとつらいことが多い。できれば持ちたくないというのは障害者自身も本音の気持ちだろう。

 でも、障害には負の面だけでなく正の面もある。おいら自身も、病気によってある意味かなり特殊な経験をし、それがおいらの人格形成に大きな影響を与えてきた。障害を否定していては、おいら自身を否定することになってしまう。4月からの職は、一見障害とは関係のない生物学の研究職である。しかし、きっと工夫を凝らせばどこかの場面で障害者としての視点や立場を生かせるときがくるだろう。健常者のようにばりばり仕事はできないが、おいらを雇ってよかったと思えるようなおいらにしかできない役割を果たせるように努めたい。まだ働いてもいないのに、ちょっと気の早い所信表明となってしまった。

おのおの抜かりなく

おいらの就職活動が終わった。先週受けた遠方での面談で、正式に採用されることになったのだ。4月からフルタイムの研究職に復帰する。ちょうど昨年の今頃、おいらは地獄入院のさなかにあり、生きるか死ぬかをさまよっていたことを思うとまさに奇跡的なことである。正直、もう二度とまともな研究職にはつけないだろうと思っていた。だから本当に本当にありがたい話である。

 4月からの勤め先は、今住んでいる環境とは真逆の南国の島である。今住んでいるところは、ときに本州で最も寒くなり−20℃もまれではない地域である。豪雪ではないものの1m以上は積もり、標高は1300mになる。先天性心疾患、特にフォンタン患者にとって寒さと高標高は大敵である。先行研究でも、高標高に住む患者ほど心不全になりやすく、運動機能が低下しやすいという報告がある。そんなわけで、南の島への移住は、心臓にとってもいいはずだ。仕事も決まり、体にも良い場所へ住めるなんて、これ以上になくめでたいことである。

 しかし正直おいらの気持ちは重かった。話が決まってからも、本当に移住していいのかと悩みに悩んだ。それは、ひとつに今の地域にもう大分長く住み愛着を感じていたからだ。おいらだけでなく、妻や子供もすっかり地域にとけ込み、知人友人ができていた。そうした人々と別れるのはとても寂しい。息子はスキーにはまり、ほぼ毎日練習に励んでいる。移住先は南国なので当然スキーなんてできなくなり、それもかわいそうでならない。それから、今の地域の食べ物がとてもおいしいのが名残惜しい。山国なので海の幸はないが、果物や野菜がとても新鮮でめちゃくちゃおいしいのだ。おいらは、桃、梨、ぶどう、りんご、みかん、など食べまくってのどを潤した。それは水分制限で常に口渇感が耐えないものには、命の恵みであった。それらを失うのは本当に寂しい。

 そして、体の心配もある。移住先は温かくて心臓にはいいはずだが、夏はかなり暑いので今度はそれに耐えられるだろうか。新しい地域での病院はちゃんとケアしてくれるだろうか。現在かかっているNC病院は、本当に良くしていただいた。この病院がなければおいらはとっくに死んでいただろう。NC病院から離れることは不安が大きい。そんなおいらの不安に追い討ちをかけるように、先週いった定期検診では、血中蛋白の値が少し低下していた。もちろんまだ入院するようなレベルでは全然なかったが、もしこのまま低下し続ければ、最悪移住早々入院なんてこともありうる。そんなわけで、折角一度は減量したハイゼントラを再び増量することになった。

 職に就くという頂上は見えたものの、まだデスゾーンは脱していない。体は相変わらず寒さとプレドニン離脱症状で、朝は特に頭痛や関節痛、だるさなどに悩まされている。先日面談にいった際には、帰りの飛行機で案の定体調を崩してしまった。今後移住すれば何かと飛行機に乗る機会が増え、その度に体調を崩さないかと不安になった。引越の準備も進んでいない。場所が場所だけに、引越費用が異常に高く見積もられ、ある引越業者からは100万以上といわれた。とても無理な話なので、なんとか安くならないかと模索している。実はまだ移住先の住む家も決まっていない。現地での下見をせずに契約をしてくれるところがなかなかなくて、次々断られている。

 いっそ今のところに住み続け、研究職にこだわらずなにか障害者枠の職でもつけば良かったのではないかと悩みもする。でもそれはそれでリスクが大きいだろう。40歳にもなって、体が不自由のなか初めての仕事をするのはかなり疲労も大きいと思う。おいらは、才能もない3流研究者だけれども、一応研究者になるための高等教育を9年受け、その道で11年仕事して食ってきたのだ。研究職を続けることが一番おいらにとって合っていることは間違いない。いろいろ悩むところは多いが、ここは腹をくくって研究者としての人生に掛けるのだ。年は食ったがそんじゃそこらの研究者には、負ける気がせん。

ひとりじゃない

目覚めると、視界ははっきりしなかった。見える物は全てがぼやけ、光のスジが何本も見えた。徐々に感覚が戻ってくるにつれ自分の置かれた状況がわかってきた。口には呼吸器が入り、しゃべることもできない。ベッドの上に寝ているのはわかるが、全身ほとんど感覚はない。ピコピコと心電図の音や呼吸器の轟音がうるさくなり続けている。あとでわかったことだが、光のスジは天井についている蛍光灯の明かりがぼやけてスジのように見えたのだった。

 ふと、誰かがベッドサイドにきて、おいらの手を握り声をかけてきた。何人かいるようだ。だがそれが誰なのかははっきりしない。親なのか妻なのか、それとも医師か看護師なのか。あとでいわれたが、そのときのおいらは大分間違って認識していたらしい。ともかく親族の誰かが声をかけてくれたのだろうと思い、何か話そうとした。しかし、呼吸器が邪魔で声が出ない。そこで、ノートに文字を書こうとしたが、自分で書いている字が見えず、ぐちゃぐちゃになってしまった。そこで、文字盤を用意してもらい、指指しで一文字ずつ伝えることにした。だがそれも自分の指が見えずにどこをさしているかわからない。なかなか伝わらずおいらはといらついた。

 その後どのくらい時間が経ったのだろうか。数時間かあるいは一日か、やっと呼吸器が外された。呼吸器をはずすときは、のどの奥まで挿入された固いパイプを外すため、かなりきつかった。外した後ものどが痛み、口も自由に動かなかった。声を出そうとすると、宇宙人のようなかすれた声が出るだけだった。

 これは二年前の2015年6月に、フォンタン再手術を受けた直後の目覚めたときの状態である。今となってはかなり記憶が薄れてしまった。手術直後といっても手術後数日は麻酔で寝ていたので、実際は2日くらい後のことである。記憶が薄れたとはいえ、やはりそのときの状態はあまりに苦しかった。手術前から大手術になり術後もかなりつらい思いをすることを覚悟していたが、現実は想像を絶するものだった。痛みと苦しみが暴風雨のように全身を襲ってきた。絶望的なこの状況から逃げ出したかったが、どうすることもできずともかくひたすら我慢して時が過ぎるのを待つしかなかった。時間が経てば少しずつでもきっと楽になる、そう希望を持ち耐えに耐えた。少しでも気を緩め気持ちが負ければ、途端に気が狂ってしまいそうだった。一息一息全身で呼吸し、呼吸に全神経を集中させた。

 このときのおいらは、死に限りなく近かった。無数の点滴やドレーンにつながれ、鼻には酸素吸入器がついて、ものすごい勢いで酸素を送っていた。まるでドライヤーを当てられているようだ。常にバイタルをモニターされ、24時間態勢で看護師や医師が監視していた。そんな状況の中、もしわずかでもこうした生命維持が止められたら、おいらは一瞬で死ぬだろうと強く感じたのだった。自力で命を維持する力は全くなかった。おいらの肉体はもはや生命体ではなく感じられた。実験で細胞だけが生きている臓器のようなものだった。そこから、生物として自力で命を維持するまでに回復するのは絶望的に遠く感じられた。でもそういうときこそ耐えるしかなかった。おいらにできるのはただ我慢して耐えること。耐えるといっても歯を食いしばって我慢するのではなく、苦しみや痛みに逆らわず今の状況に身を委ねじっとしていることだった。気持ちが折れずにそれを続けていればいつか回復する。そう信じた。そう信じられたのは、医師や看護師や家族が全力でおいらの命を救おうとしてくれていることがひしひしと伝わってきたからだ。もはや職務や責任を超え、心から助けたいという思いが伝わった。赤の他人のおいらを、なぜそこまで命を守ろうとするのか不思議なくらいだった。

 こうしておいらは救われた。我慢のかいがあり、希望通り少しずつ回復していった。その後の回復期も我慢の連続だった。水分制限でからからに口が渇いた。手術の傷口の消毒やドレーンを抜いたりなどは激痛だった。後に傷口が化膿し、切開したりなど新たな痛みが襲った。筋力が失われ歩行練習などのリハビリが続いた。でも、毎日少しずつ回復していく実感があった。

 フォンタン手術を始め先天性心疾患の開胸手術は、ほとんどの場合子供の頃に行われる。最近はフォンタン手術も3歳くらいまででやってしまうそうだ。おいらの最初のフォンタン手術は13歳のときだった。子供の方が術後の回復が早く、体の負担も少ないからだ。また、苦痛のコントロールもしっかりやるので、手術もそれほどしんどくない。実際おいらも、ファミコンをもらって入院最高と思うほど、お気楽だった。しかし、大人になるとそうはいかなくなる。おいらのフォンタン再手術も相当手こずったらしい。まず、子供の頃の手術の影響で心膜と骨の癒着がひどく、それを剥がすだけで5時間以上かかった。結局全体で22時間の手術となり、さらにその手術で出血が止まらなくなり、出血を止めるため2日後に再び5時間の手術を受けた。冒頭の目覚めは、その二つの手術を終えた後の話である。

 おいらのように旧式のフォンタン手術を受け、現在成人になっている人は何らかの合併症がでるとフォンタン再手術を受ける可能性が高い。おいらは比較的高齢での再手術だったため、なおさら苦労したのかもしれないが、だれであれ大人になってからの再手術はかなりの苦痛をともなうだろう。それは子供の頃とは比べ物にならない苦しみである。もしこれから再手術を受けようとしている人がこの文を読んだら、憂鬱になるかもしれない。でも、楽だったとか気休めのことはいえない。相当の覚悟が必要だと思う。

 こんな苦しみは本来受ける必要はないし、受けなくていいものだ。でもおいらはこの手術によって、それだけの価値のあるものを得たように思う。普通の生活の中では到底得ることのできないものだ。おいらは、この手術の前と後ですべてが変わったように感じる。身体も精神も考え方も行動もすべてが変わった。中にはいい意味でない変化もある。例えば筋力の衰えや腎肝機能の低下などは、未だに引きずっている。体が動かなくなり日常生活は格段に不便になった。一方で、不整脈がなくなったり、蛋白が安定したりなど改善した点も多い。

 想像を絶する苦しみを味わい、日常が不便になった分、些細なことに喜びや幸せを感じるようになった。手術後初めて口にした水分には、これまでの人生の中で最大と思えるほどの快感を感じた。わずか数十CCだったが、全身に染み渡るようだった。管が一つとれ、苦しみが少し減るたびに感動した。だが特に繊細になったのは、人の優しさだった。家族や医師や看護師さんに少し優しくされるだけで、涙があふれた。その涙には、感謝の気持ちと助けてという気持ちと、生きている実感を得た感動の気持ちなどいろいろ含まれていた。それがちょっとしたことであふれてしまうのだった。以前のおいらは、他人の優しさや感情に半ば無関心だった。どんなに親切にされても、感謝の意を示さず、当然のように振る舞っていたと思う。今もまだそういう面があるかもしれないが、それでも手術後に少しでも人の親切に気づくことができたことがよかった。それはこれからのおいらの人生を明るく照らす光のスジにちがいない。

 これから再手術を受ける方には、手術は地獄のように苦しいが頑張って欲しいと心から願う。きっとあなたの周囲には、全力で命を救おうとしてくれる人々がついていてくれるはずだ。決して一人ではない。