ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

Quantifying QOL

Quality of Life(QOL:生活の質)は、病人や障害者には馴染み深い用語である。しかし意外なことに、調べてみるとはっきりとした定義が見つからないのだ。Wikipediaでは、人生の内容や社会的な生活の質を指し、どれだけ人間らしい生活や自分らしい生活を送り幸福を見出しているか、という概念だと書かれている。あるいは、もっとシンプルに「生きがい」や「満足度」を意味するという説明もある。しかし、人間らしい生活にしろ満足度にしろ、それは人それぞれであり、主観的である。なかなか満足を感じられない人にとっては、QOLはいつも低くなってしまう。逆にどんなに不自由な生活をしていても、満足していればQOLは高くなる。結局それでは、QOLは本人の気持ち次第だということになる。

 QOLに似た概念に、Activities of Daily Living(ADL:日常生活の活動力)という用語がある。ADLは食事、排泄、入浴、歩行などの動作がどこまでできるかという行動制限にだけ着目した概念であるが、おいらが今までイメージしていたQOLはこの方が近かい。実際、診断書などでQOLを評価する場合にはADLを見ている場合が多い。しかし、ADLでは、おいらの考えるQOLにはまだ物足りないのだ。

 おいらはQOLを、様々な面でどれほど制約・制限があるかという尺度として捉えている。それは行動制限だけでなく、食べられるものや量が限られる食事制限や飲める水分量が限られる水分制限、アルコール制限、運動制限なども含む。この尺度は、健常な人ができる程度を100%としたときに、制約や制限の程度を数値化して客観的に表せるのが望ましい。例えば、健常な人が特に何も気にせずに1日に飲める水分量が2リットルだとしたら、今のおいらは1リットルくらいしか気にせずに飲めないので(それ以上飲むと浮腫む危険性が出てくる)、おいらの水分摂取量におけるQOLは50%ということになる。アルコールに関しては全く摂取できないので、アルコールQOLは0%である。そうした多様な項目についてそれぞれQOLを出しても良いし、それら全てを平均するなどして総合的なQOLを出しても良いが、重要な点は、制約や制限の程度であり、それは客観的に定量できるものであることだ。だから、幸せかどうか満足かどうかという気持ちの問題ではないのだ。

 おいらが勝手に定義づけたQOLに従えば、かなしいことにほとんどの障害者の人は一生QOLが低いままになってしまう。おそらくそれではあまり印象が良くないということで、制約や制限があろうとも人生に満足できればQOLは高くなるという曖昧な概念に変化していったのかもしれない。でもそれはなんだかただの気休めである。どう満足していようが制限があることには変わりない。むしろその制限をしっかり評価して欲しいのだ。

 制約や制限の程度と厳密に定義づければ、それは病人や障害者だけでなく全ての人に当てはめて評価することができる。先日の豪雨に被災された方々は、現在一時的にQOLが著しく低くなっていることだろう。どういった項目のQOLがどの程度低いかが把握できれば、それを改善するための具体的な対策も立てやすいかもしれない。病人や障害者に対しても本人が満足していればQOLが高いなどと判断せず、純粋にどれだけの制約があるかを評価してくれた方がありがたいと思う。

 制限が多いのでQOLは低い。それはそれ。でも毎日何かに満足している。そういう生き方がおいらは好きだ。