ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

命の品定め

最近、おいらの住む南の島のサンゴ礁を巡って、世界中を巻き込んだ論争が起きている。軍事利用のためにサンゴ礁が埋められる事態が迫っており、その保全が争点の一つになっているのだ。おいら自身は、生物学者の端くれとして保全を願っているが、生物保全の意義を科学的に説明することは実はかなり難しい。おいらの足りない知識で申し訳ないが、なぜ科学的意義付けが難しいのかをおいらなりに説明してみたい。

 生物学の一分野に保全生物学という分野があり、この数十年で急速に発展した。保全生物学の理論では、生物とくに生物多様性には、環境浄化、気候や生態系の安定化、生物資源の生産など、人類では到底達成できない莫大な価値があるとされる。これらは実際に多くの研究で実証されており、生物多様性を経済価値で評価すると恐ろしい金額になる。しかし、こうした経済価値を重視した視点では、経済価値のない生物種や生態系は破壊して良いという解釈もできてしまう。あるいは、その場所の生態系を保全した時の経済価値より、そこを開発して新たに生み出される経済価値の方が大きければ、開発して良いというお墨付きを与えてしまいかねない。それは生物保全という本来の目的からは、なんだか逸脱してしまう。

 生物多様性には経済価値とは別に、歴史的価値という考え方もある。人は、歴史上古いものには特別な価値があると感じる。それは失われたら二度と生まれない貴重な存在だからだ。例えば、国宝となっている建物や仏像などは、厳重に保全したくなる。それと同様に、生物種もまた地球が生み出した歴史の産物である。ある生物種が絶滅すれば、その種は二度と生まれることはない。だがこの考えにも保全上の限界がある。生物進化上古い時代に誕生した種は価値が高いが(例えば生きた化石と言われるシーラカンスとかイチョウなど)、比較的最近種分化した種は価値が低く扱われてしまいかねない(遺伝的に極めて類似した近縁種がいるため)。おいらの住む島には島固有の生物種も多いが、それらは残念なことに比較的新しく種分化したものばかりだ。だから保全上価値が低いなんて評価が下されかねない。

 もう一つ歴史的価値と類似するが、希少性というのも生物の価値の一つとみなされる。例えば、島固有種は世界中でその島だけにしかいない生き物であり、個体数も少なく極めて希少な存在である。我々の日常生活でも、限定品やらオリジナル品などは高いお金を払っても得たくなる。希少性は生物保全において重要な価値であるが、それを重視しすぎると、島など固有な生物が多い地域ばかりが保全対象になる。そのような場所は、大概面積が小さく他の地域と隔離されていて、地球全体の生物多様性に占める割合はごくごくわずかである。そこにコストをかけて重点的に保全すると、もっと大規模な地域の保全がおろそかになってしまい、結果として地球全体の生物多様性は大幅に減少しかねない。

 生物保全にかけられるコストは有限であり、全ての生態系をまんべんなく保全することはできない。そのため、どこにどれほど保全コストをかけるのかが難しい問題である。経済価値、歴史的価値、希少性、そのどれを重視するかで保全の手法や対象は大きく変わってくる。だから、今研究者にできることは、複数の保全案を提示することだけであり、どの案を選択するかは保全を実施する人(多くは行政などの実務者)が主観で決めるしかない。

 振り返って、島のサンゴ礁保全を考えると、経済価値、歴史的価値、希少性、いずれにおいても軍事的価値より高いように思えるが(少なくともこの島の人々にとっては)、賛成派の主張する安全保障や人命と比較されると、いかなる価値もそれより低くなりかねない。なにせ人の命は地球より重いのだから。ほら、答えが出ないじゃないか。でも、おいらが思うに人の命を心から大切に思えるなら、サンゴの命も大切だと思える気がするよ。だから、人とサンゴの命を天秤にかけるのは虚しいのだ。