ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

フォンタンの未来

先日、フォンタン患者とその家族それに全国から集まった小児循環器医が参加したフォンタンのセミナーがあり、おいらは患者の一人として体験談を語ることになった。おいらは、今住んでいる南の島の中ではフォンタン患者として最高齢らしいが、それは別に偉いことでもなんでもない、というひねくれた導入から始まり、10分弱で自分の病気の体験をプレゼンテーションにまとめてお話しした。生物学者の端くれとして、ここぞとばかり生物学的視点も加えて説明したら、これが思いの外好評だった。

 その発表の内容はともかくとして、先天性心疾患に関する生物学的研究は現在に至ってもほとんど行われていない。そもそも、生物学と医学は全く別の学問分野として確立しており、それぞれが同じ問題を研究することはあまりない。先天性心疾患も例外ではなく、医学的研究は数多く行われていても、生物学者にはほとんど無視されている。先天性心疾患が遺伝性の病気であったら、少しは話が違っていただろう。遺伝学は現代生物学の中でも最も研究が盛んな分野であり、生命現象に関わる遺伝的メカニズムは、病気であろうが行動であろうが研究対象になりうる。先天性心疾患は遺伝でないため、発生過程で生じたバグかエラー程度にしか認識されず、生物学者にはあまり興味を引かないようだ。それは随分と失礼な話ではあるが、生物学の観点からの基礎研究は、医療に直結せず研究資金がおりにくいという事情もある。

 そのような状況の中でも、先天性心疾患の生物学的研究について解説した貴重な本がある。ロブ・ダン著『心臓の科学史』という本で、原題はThe man who touched his own heart(自分の心臓に触れた男)という刺激的なタイトルがつけられている。これは自分自身の体を実験台として初めて心臓カテーテルを成功させた男から、つけられたものである。本の内容は、カテーテルだけでなく、レオナルド・ダ・ヴィンチが詳細に心臓を解剖した話から始まり、ペースメーカー、人工心肺、心臓移植、人工心臓、バイパス術等の様々な心臓疾患の医学史がわかりやすく物語調に語られている。残念なことに、本の大部分は心筋梗塞動脈硬化などの後天性の成人心臓疾患に関することで、先天性心疾患の記述は多くない。特に、フォンタンについては全く触れられていない。しかし、著者は生粋の進化生物学者だけあって、心疾患の進化的起源に関する数少ない研究例を詳しく紹介している。それゆえに、本書は「心臓の医学史」ではなく「心臓の科学史」というタイトルがふさわしい。内容は理解が難しい点はあるが、心臓病を抱える患者にとっては、一読の価値があるといえる読み物であった。

 おいらは、先天性心疾患は今後生物学で取り組むべき重要なテーマだと思っている。上記の本でも触れられているが、先天性心疾患は2心室性の複雑な心臓持つことによって生じた必然的な運命なのであろう。複雑な心臓は発生が難しく、発生過程のちょっとした逸脱で奇形が生じてしまう可能性がある。それはエラーと言えばそれまでかもしれないが、先天性心疾患が生じる生物学的メカニズムがわかれば、人類はより深く心臓を理解し、将来の先天性心疾患の治療に大いに役立つことは間違いない。フォンタン循環は、遠隔期に多様な合併症が発生するため、明らかに心臓と全身に負担のかかった血行動態と言える。いつか遠い将来には、より負担の少ない新たな手術法が開発され、フォンタン術は廃れていくであろう。それは、心臓の基礎生物学的研究の発展によって開ける道なのかもしれない。