ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

生物にはなぜ病気があるのか

「難病カルテー患者たちのいま」という本を読む。多くの難病患者が紹介されていたが、生まれつき症状が発症している先天性疾患の例は少なく、ある程度成長してから発症する神経・筋肉・骨・消化管・免疫系の難病が大半だった。そうした難病では、早い人なら10代くらいから遅い人では40代以上で発症し、発症する前は健常者と同じ生活を送ることもできた。それだけに、発症した時のショックも大きく、徐々に悪化する病状への不安から、人によっては「どうして私がこんな目にあうのか」と嘆き、絶望されている方もいた。

 一方、おいらは先天性心疾患なため、ある意味生まれたときが一番絶望的な状態だった。その後手術を何度も繰り返し病状が少しずつ改善していくうちに、絶望は希望へと変わっていった。そして、最初のフォンタン手術を受けた後は、それこそ健常者と同じ生活を送ることさえできた。やがて、30後半になると、再び心臓の状態が悪化し第二の闘病時代が始まった。しかし不思議とショックも絶望もそれほど感じなかった。むしろ諦めというかいつかそうなるなという覚悟が心のどこかであった。

 おいらも本の登場人物も、難病持ちであり、人生の一時は健康な状態で生活できたという共通点はあるが、病気に対する意識や感じ方はだいぶ違っているようであった。でもその違いは、どちらが良い悪いということではない。ただ生き方が違うということを示しているに過ぎないのだ。しかし、難病という言葉でくくってしまうと、なかなかその違いは見えてこない。たとえ様々な難病を学んだとしても、難病を持った人々という認識で止まっていては、生き方の違いまで理解することはできないのだ。

 病気は痛く苦しく辛いことではあるが、生物にとって病気は宿命であり、病気にかかることは生き方の一つなのである。病気のネガティブな面だけを見ていては、生物とは何か、生きると何か、という生物の本質は理解できない。ある病気を持てば、生物はそれに合った新しい生き方を模索する。病気は生物の生き方に多様性をもたらす原動力なのである。

 

 今回の記事は、言いたいことがなかなかまとまらず、何度も何度も書き直した。結局タイトルの答えをうまく説明できなかったが、このまま書き直し続けてもきりがないので、中途半端なまま終わりにしちゃおう。無理しないのもフォンタン患者の生き方だからね。