ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

天国は地獄の入り口

7月に入り心房細動が度々出るようになった。7月後半からは毎日出続けるようになり、電気ショックも効果が期待できなくなった。そこで、投薬の量や種類を変えることになり、まず以前から飲んでいるアンカロン(アミオダロン)の量を増やしてみた。だがあまり効果は見られず、2日前からは薬をベプリコールという種類に変えて服用することになった。今のところその効果は、はっきり現れていない。

 心房細動が止まらなくなった7月からは、みるみるおいらの体調は低下していった。まず、ちょっとした動作ですぐに疲れて息切れがしてしまう。胸やみぞおちに不快感が常にあり、寝ていると体全体が揺れるほどの動悸を感じた。血中のアルブミンやタンパク量が急激に低下し、足が浮腫んできた。不思議と息苦しくむくんでいる時ほど、口がやたらと乾くため、つい水分を摂り過ぎてしまい、さらにむくみを加速させた。体重は1ヶ月で2キロ増えた。夜寝ていると、夜中や朝方が苦しくなった。体全体に力が入らず気力が湧かなかった。

 そんな危機的状況にも関わらず、先日は絶好の海日和だったため、海水浴に出かけていった。その場所は、知人に教えてもらった穴場ビーチで、おすすめ通り素晴らしいビーチだった。砂浜は白く水は透きとおり波も穏やかで、遠浅の海は天然のプールのようだった。水の中には小魚が群れをなして泳ぎ、時々かなり大きな魚も横切った。陸では強烈な日差しで肌や服が焼けるように熱くなったが、水に入ると熱せられた体を優しく冷まし、この上なく気持ちよかった。南の島だからこそ味わえる極上の贅沢であった。

 そのまま海面をただプカプカと浮いて極楽を味わっていればよかったのだろう。しかし、おいらは生物学者の血が騒ぎ、つい魚を見たくなりシュノーケルをつけて水中を覗き見ることにした。今までならシュノーケルをつけて息ができていれば、さほど苦しくならなかった。しかしその日は違った。シュノーケルで呼吸するとひどく苦しい。しまいには吐き気をもよおし、危うくシュノーケルをつけたまま吐きそうになった。もし吐いていたらシュノーケルの筒からゲロが噴出して、楽園のビーチが一瞬で地獄の光景になっていただろう。

 ついには水に入っているだけで苦しくなってきて、おいらは早々に海を出て先に車に戻って着替えることにした。ビーチから車までのわずかな距離も恐ろしく遠く感じられ、ゼーゼー言いながら歩いた。そんな時に限って、朝飲んだ利尿剤が急に効き始め、凄まじい尿意が襲ってきた。トイレは車よりさらに遠かった。さらにこの日は、5月から痛めた右脚が特別に痛んでいたため早く歩くこともできず、尿意と息苦しさと吐き気と暑さと脚の痛みが同時に襲い、気を失いそうだった。

 だが、おいらはこれまで散々地獄を味わってきただけある。歯を食いしばってギリギリで耐えなんとかトイレに着き、まず尿意から解放され、次に車に戻りエアコンをガンガンにつけて暑さからも逃れられた。ここまでくればもう勝利は目前である。落ち着いて一つ一つやるべきことを片付けていった。水着を着替え、砂まみれの足を水道で流し、水分を補給し、もう一度トイレに行った。その頃には、家族も海から上がって戻ってきていたので、おいらは何事もなかったかのように水着や草履を片付けて、帰り支度を済ませた。そして、帰り道のコンビニに寄り、エアコンの効いた店内で体を冷まし、もう一度トイレに行き、よく冷えた水分を補給すると、おいらを散々襲っていた苦しみは幻のように薄らいでいった。

 今冷静になって思い返すと、無事何事もなく帰れたのは奇跡的だったかもしれない。いつ吐いたり尿を漏らしたり気を失ってもおかしくなかった。最悪は、苦しさのあまり海で溺れたり、吐いて海水やゲロが気管に入ってしまったりしたら、死につながっていたかもしれないのだ。だから皆さんも気をつけよう。どんなに天国のように見えるビーチでも、地獄の入り口は常にあなたのそばに潜んでいるよ。