ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

赤い涙

もう何年も前から、血栓予防のためワーファリンを飲み続けている。ワーファリンは血液凝固を抑制し、血をサラサラにする効果があり、その裏返しとしてちょっとした出血でもなかなか血が止まらなくなるリスクがある。そのため、おいらは身体中に常に内出血痕が無数にあり、特に腕や脚に多い。お腹や腰、胸なんかにもよくできる。それらの多くは、衣服を着ていれば人目につかず気づかれないが、厄介なのは目の出血である。

 目は意外と出血しやすい部位のようで、ちょっと擦ったり、ゴミが入ったりすると毛細血管が切れて充血する。普通ならすぐに血が止まりちょっと赤っぽくなるだけで済むが、おいらの場合は血が止まらないために白目が真っ赤になるほど血が溜まっていき、数日すると眼球の表面に血が溜まった袋が飛び出てくるほどだった。見た目は今すぐ治療しないといけなそうなほどおどろおどろしいが、眼科で診てもらうと結膜下出血というほっといていい程度の症状だった。しかし、おいらの目に過剰に溜まる血には、眼科でも見抜けない本当の原因が隠されていた。

 昔一時期、毎日のように大泣きしていたことがあった。昔といっても、赤ん坊の頃や幼い子供の頃の話ではない。ほんの数年前のフォンタン再手術を受ける少し前の頃である。その頃のおいらは、絶望に打ちひしがれていた。その理由は明かせないが、心臓の調子が極めて悪いことだけが理由ではなかった。ともかく、悲しくて仕方がなく、ちょっと気が緩むと途端に涙が溢れ出した。入院していた時には、看護師さんや他の患者に見られないよう、病室や病棟を抜け出し人気のいないフロアに行って泣いていた。

 涙があまりに止まらないものだから、終いには水中にずっといるかのようにぼやけて何も見えなくなったりした。ある晩も泣き続けていた。やがて泣き疲れて眠りにつき、朝になった。しかし、目を開けることができなかった。なんとか差し込んでくる光を頼りに起き上がって洗面台に行き鏡を見ると、おいらの顔が今まで見たことがない状態になっていた。顔全体がパンパンに腫れ上がり、まぶたの間からはみ出るほどに眼球が膨らんでいたのだった。目玉の表面に薄い膜ができ、その中に水が溜まって、水風船のように今にも破れそうだった。流石にその時は悲しさより恐怖が勝ったのか、しばらく涙が止まりやがて水ぶくれは引いていった。しかし、一度水が溜まってできた袋はなくならないらしく、それ以来泣いたり、むくんだりした時にはいつも眼球に水が溜まるようになった。そして、血もまた、出血するたびにたまるようになった。

 もし目が異常なほど充血して血が溜まっている人を見かけたら、もしかするとその人もまたおいらのように過去に散々泣きはらしたか、パンパンに顔が浮腫んだかした経験がある人かもしれない。目に溜まる血には、幾分か涙も混ざっていることだろう。しかし、身体が自然と血を吸収して充血が癒えていくように、涙と絶望も諦めずにいればいつかは自然と癒えていくものだ。だから、真っ赤に充血した目は、絶望なんかに挫けないよという闘志に燃えた目でもあるのだ。