ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

どんな抗生物質や修行も効かないことがある

数週間前から虫歯の治療を始めた。正確には、初診は歯や歯茎の状態のチェックで、2回目、3回目は歯石や沈着汚れを掃除をしてもらい、治療が始まったのは4回目だった。先天性心疾患業界ではもやは常識となっているが(そもそもそんな業界があるかは置いておいて)、虫歯は先天性心疾患患者にとって極めて危険な存在である。それは、虫歯や歯周病といった口内の病気を持っていると、そこから細菌感染が起こり感染性心内膜炎という死亡率の高い症状が起こりうるからだ。

 とはいえ、虫歯の治療自体もリスクを伴う。特に抜歯など大量に出血する治療の場合には、そこから感染が起きかねない。だから出血を伴う治療をする前には、抗生物質を飲んで予防をすることが重要である。ところが、先天性心疾患患者は闇雲に抗生物質を使ってはいけないとおいらは教えられてきた。というのは、抗生物質は使い続けると効かなくなるという性質があるため、特定の種類の抗生物質は将来の手術用に使わずにとっておく必要があるからだった。だから、歯の治療をする際には、事前に心臓の主治医と相談し、どの抗生物質を使って良いかを確認した上で治療を受ける必要があった。おいらはその教えを忠実に守り、子供の頃に治療して以来歯科医院に行くのをずっと避けていた。

 今回の治療を始めるよりしばらく前、現在の心臓の主治医に歯の治療について尋ねたことがあった。すると、あっさり特に問題なくしても良いと言われてしまった。ただ、やはり親知らずを抜くなどの大量出血を伴う場合は、なるべく避けて欲しいとのことだった。それは感染症のリスクもあるが、ワーファリンを飲んでいるために止血が難しいためでもあるようだ。抗生物質に関しては特に手術用にとっておく種類があるというわけではないようだった。もうおいらが歯医者に行かなくていい正当な理由はなくなった。むしろ、心内膜炎などのリスクを考えれば、酷くなる前に積極的に行ったほうが良いのは明らかだ。そんなわけで、おいらは約30年ぶりにようやく重い腰をあげたのだった。

 歯の治療はともかく痛くて怖いというイメージがある。実際職場の人に話をすると、皆超痛いと口を揃えていった。でもこの数年間数々の激痛治療を耐え抜いてきたおいらには、並みの痛みでは屈せず、むしろどんだけ痛いのか期待すらしていた。まず初診の歯茎チェックでは、血が出たりズキッと痛かったりすると脅されたが、残念ながら全く痛みがなかった。2回目、3回目の歯の掃除でも、マッサージを受けているように気持ちよく眠りそうになった。やっぱり、予想通り超余裕だったな。こんなんで痛い痛いと弱音を吐いているようじゃ、お前らまだまだ修行が足りんのうと悦に入っていた。

 そして4回目、いよいよ本格的治療。前回までは主に歯科衛生士の方が担当してくれたが、治療は当然ながら医師がおこなった。その先生は歯の治療は皆とても怖がるということを心得ており、なるべく怖がらせないよう治療を始める前に、「麻酔を使った治療はしたことがありますか」と優しく聞いてきた。フッ。野暮なこと聞かないでくれよ。このおいらを誰だと思っているんだね。麻酔なんてここ数年打ちまくられてきたぜ。首や鼠蹊部や肋骨や胸骨の周りに麻酔するのに比べたら、全然怖くないぜ。と余裕をかまし、全然大丈夫ですと答えた。それでも医者は「ちょっとちくっとしますよ」ととても優しく声をかけ、麻酔薬もゆっくりと慎重に入れていった。やっぱり予想通りほとんど痛くなく余裕だった。

 だがしかし、おいらの強がりとは裏腹に、麻酔を打っている途中から顔面がぴくぴくと痙攣し始めたのだ。特に唇の痙攣が酷く、医師は麻酔をしながら時々唇を伸ばしたり抑えたりして止めようとしていた。いやこれは麻酔を打っているから神経がおかしくなって痙攣しているだけだ。決してビビったからではない。心ではそう思い続けた。でも実際は、麻酔を打たれている方とは反対側の遠い部分が最も痙攣し、そのうち手も震え心臓の拍動も早くなっていった。おそらく内心超ビビって極度に緊張していたのだろう。ようやく麻酔が終わり、うがいするよう言われると徐々に震えや痙攣が和らいでいった。

 ショボ。これまでの修行全く役立ってないじゃん。誰だよさっきまで悦に入って余裕かましてたやつ。心の中で自分で自分に思い切りつっこんでいた。実際は麻酔もその後のキュイーンと削られる治療もさほど痛みはなく、逆になおさら自分のショボさを際立ててしまった。結局どんなに痛い治療を経験していようと、慣れていないものには怖いのだ。

 今週もまた治療がある。もしまた削るような治療になりそうなら、なんとかそうしないで済む方法がないか相談し、場合よっては治療を保留しようかと今からドキドキしている。