ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

妖しき統計

 おいらが専門にしている生態学は、生物学の中で最も統計を駆使する分野である。生物学には、生理学、発生学、細胞学などほとんど統計を用いない分野もあれば、生態学、系統分類学、遺伝学のように統計を使いまくる分野もある。実際、おいら自身も日々の研究活動の中で、さまざまな統計を使っている。だから、世間的に見ればおいらは統計に詳しい専門家と思われるかもしれない。

 今、国の統計不正問題が大きく騒がれており、その背景には、景気を良く見せようとした、組織ぐるみの隠蔽があるみたいだ、政権がからんでいるかもしれない、いやいや官僚の忖度だ、といった様々な疑惑が浮かび、虚無感が社会を覆う事態になってしまった。こんな時こそ、統計に詳しい人物の出番である。でも恥ずかしながら、おいらはそれらの疑惑を検証できるほどの証拠も知識も持っていないので、残念ながら真偽はわからない。とはいえ、それでは今まで学んできたことが何の役にも立たないので、拙い知識ではあるが、おいらなりにそもそも統計とはなんなのかについて説明してみたい。おいらの説明で、統計に少しでも関心を持っていただけたら幸いである。

 おいらが考える統計とは、すごく簡単に言えば、何かの数の集まりを特徴付ける指標である。具体的な例で話してみよう。まず何かの数の集まりとは、例えば、10個の卵のそれぞれの重さとか、100人の子供の身長といったことで、統計的な用語ではその数の集まりを集団と呼ぶ。そして、その集団の特徴をどうにかして簡潔に表現しようとする方法が、統計である。今回の統計不正問題と絡めて、A,B,C,D,Eさんの5人の年収を例にもう少し具体的に説明したい。この5人の年収が、200万、200万、200万、400万、1000万だったとする。この5人の年収を特徴付ける統計として、もっともわかりやすいのが代表値である。あとで述べるように実は代表値には色々な表し方があるが、その中で「平均」は、誰しもが一度は聞いたことがあるであろう。平均は5人の年収を全部足して人数(5)で割った値として計算できる。この例の場合は平均は400万になり、5人は平均400万の年収がある、という具合に説明したりする。でもなんかしっくりこない。5人中3人が年収200万で平均の半分しかないのに、本当に平均は集団の代表値として適しているのだろうか。

 先ほど、代表値を表す統計はいくつかあると述べた。より詳しく言えば、実は平均にも色々な種類があり、先ほどの例は算術平均と呼ばれるもので、これ以外にも値を対数変換して平均する幾何平均というものもある。それから、5つの値の中でもっとも中間にある中央値、一番出てくる頻度が高い最頻値なんかも集団の代表値として表す方法である。それぞれの統計値を先ほどの例に当てはめると、幾何平均が316万、中央値が200万、最頻値も200万となる。では、一体どの統計値が集団の代表値として適しているだろうか。

 それは、集団の中の値のばらつき具合(統計用語で分散と呼ぶ)を見れることでわかる。5人の年収の例では、集団の中に大きく外れた値(1000万)があるため、外れ値の影響を強く受けてしまう算術平均は、代表値としてあまり適さない。残念なことに、国の統計にかかわらずテレビや本や新聞などで出てくる平均にはほとんど分散が示されておらず、平均が適しているかを評価できない。言い換えれば、分散を示していない平均はほとんど信用できないのだ。

 ところで、今回の統計不正問題は、適した統計値を使っているかどうか以前の問題だった。そもそもの数の集まり(集団)が、誤った方法で集められた意味のない集団だったのだ。だから、この集団から平均や中央値や最頻値や分散をいくら求めたところで、全て信用できないのである。もはや、集団を正しく集め直すことはできない。つまりこの国の真の姿は永遠にわからないままになってしまったのだ。

 統計に関心を持ってもらうどころか、ますます統計が信頼できない話になってしまった。でもそれが統計を理解する出発点だとおいらは思っている。怪しいからこそ、むやみに統計を信じずその意味を深く考えることが大切である。そうして、突き詰めて調べ考えていくことで、集団の中に潜む法則が見えてくるのだ。おいらの研究は、生物における様々な数の集まり(例えば、植物個体が付ける花の数、葉の数など)を統計で表現し、その背後にある法則を解明することである。多様な統計手法を駆使しても、美しい法則にたどり着かないことがほとんどである。でも、稀に法則性を見出せた時、えも言われぬ感動に全身が満たされてしまう。だから統計は、妖しくも魅力的な存在である。

2つの記録

今から約3年前半の38歳の時、おいらはTCPC conversion(フォンタン転換手術)を受けた。その時の手術直後の状況を妻が記録してくれていた。このサイトを作ろうと思ったきっかけは、30年前の母の残した記録と3年前の妻の残した記録、その2つの記録があったことが大きい。

 辛い思い出しかない手術や入院のことなんて、正直本人は忘れたい思いだった。しかし、いざしばらく時間が経ち、後で記録を読み返すと、なんだかとても貴重な体験をしたように思えてきたのだ。記録が残っていて良かったと思った。そう思うと、おいらの記憶のなかにしまってある病気の体験も書き記しておきたいと思えてきた。記憶はいずれ薄れてしまう。しかし、ただノートに書き記すだけではすぐに飽きてやめてしまいそうだ。だから、継続できるよう書くことがノルマになり、そして自分だけでなく同じ病気を抱える人々にとっても少しでも役立つような情報として残したいと思った。そうして思いついたのが、インターネット上のブログだった。

 ブログを開設するにあたって、おいらなりにいくつかの制約を設けた。まず一つ目は、知人友人家族等いかなる知り合いにも、このブログの存在をおいら自身から紹介しないこと。その理由は、知り合いの目をできる限り意識したくなかったからだ。知り合いが読んでいると思うと、どうしてもその人に向けて内輪な話を書いてしまうリスクがある。大げさな言い方をすれば、できるだけ万人に話しかけるような内容にしたかったのだ。今ではもしかするとこっそり読んでいる知り合いもいるかもしれないが、おいら自身は誰が知っているか全くわからない。もし読んでいても、おいらに会ったときは秘密にしていてほしい。2つ目の制約は、できるだけわかりやすく丁寧な文章にする事である。わかりやすく丁寧な説明は、おいらが人と話す上でもっとも大切にしているポリシーでもあり、自分が患者として医療の説明を聞く際に切実に願っているためでもある。この点は、また別の機会にお話ししたい。3つ目は、病気のことに関して、なるべく全て隠すことなく書くことである。これは当初の病気の記録という目的のためにも、脚色をせず客観的に実際に体験したことを書き記すことが重要に思うからだ。

 そして最後4つ目の制約は、制約というより願望というべきかもしれない。それは、辛い、苦しい、痛いばかりの病気の体験の中から、わずかでも希望を見出すことである。母と妻の記録は、どちらも起きたことを時系列的に淡々と記しているだけだが、読むとなぜか生きる希望が湧く内容だった。手術後に少しずつ意識と感覚が回復していく様子は、死の淵から這い上がろうとしている人を見ているようで、自分のことなのに応援したくなるのだった。

 そんなわけで、ここ数ヶ月ブログの更新頻度が少ないのは、最近とくに目立った病気の体験がなく、希望を見出せる内容がないからだった。というのは言い訳で、本当は単に怠けているだけ。先天性心疾患だからといって、常に命の危機が迫る展開があるわけではなく、懸命に生きているわけでもなく、世の中年男性と変わりなく、だらけた平凡な日常を過ごしているのである。

インクレディブル・ファミリー

今から約30年前の12歳の時、おいらはAPCフォンタン手術を受けた。その時の入院の状況を両親が記録して1冊のファイルにまとめて残していた。ファイルには記録だけでなく、当時のクラスの同級生からいただいた手紙も保存されていた。どの手紙にも、おいらが手術を頑張ったことを讃える言葉が綴られていた。クラス全員からそんな手紙をもらったので、おいらは自分がヒーローになったかのように錯覚し、ご満悦に浸っていた。ファイルの記録や手紙をもとに、おいらのご満悦なフォンタン手術の武勇伝を紹介しよう。

 入院期間は59日間。近年のフォンタン手術では3週間ほどの入院で済むらしいが、30年前では2ヶ月でも順当な方だったろう。手術時間は21時間30分で、長いのかどうかはわからない。5年前に受けたフォンタン再手術では、当初予定の10時間を大幅に超えて22時間かかった。手術を受ける当日の朝、「いたくない?いつもどれるの?」と涙目で母に聞いたようだ。

 懇願虚しく手術後のICUは、長く辛いものだった。ICU滞在は12日間、導尿カテーテルは14日間入れ続けた。これは今の医療の常識からはかなり長い。最近の知見では、ICU滞在期間が長いほど術後回復が遅れることがわかり、早ければ手術後2日くらいで一般病棟に戻すようにしているようだ。長期間のICUは精神的に相当のストレスとなり、滞在中かなり暴れたりしたらしい。いわゆるICU症候群におちいっていた。

 なんとか一般病棟に戻れても、その後2週間ほど容体は安定しなかった。特に、胸水が止まらず胸に刺したドレーンから廃液が毎日300ccほどで続けていた。そのため水分制限も厳しく、1日約800ccほどしか飲めなかった。ようやく胸水が止まったのは手術後1ヶ月が経った頃だった。最後のドレーンを抜くときは、留置期間が長すぎたためにドレーンが内部の肉に癒着してしまっており、引き抜くとバリバリと剥がれる感覚がした。おいらは激痛で歯が欠けそうなほどに力強く食いしばって呻き声を上げた。ドレーンを抜くとまた胸水が溜まり始め不安が走った。幸いその後胸水は徐々に減り、体力も回復し始め、一般病棟に戻って3週間ほどで退院となった。退院する3日前、心臓カテーテル検査を受けたが、これが凄まじい痛みで検査後激しく嘔吐し、その後生涯にわたってカテーテルがトラウマになった。

 フォンタン手術により、これまでほとんど肺に送られてこなかった血液が大量に送られるようになった。しかし、その新しい循環系にはなかなか体がなじめず、退院後2ヶ月ほど毎朝頭痛と吐き気に苦しめられた。ある外来診察のとき、そのことを執刀医に伝えると、「そんなことはない!手術は完璧に成功したのだ!」となぜか厳しく怒られた。母は泣いていたが、おいらはよくわからずぽかんとしていた。

 クラスメートからのお褒めの言葉とは異なり、現実はおいらはただ痛みに苦しんでいただけだ。ファイルの記録からわかるのは、本当に頑張ったのはおいらではなくおいらの家族だった。毎日不安でたまらなかっただろうに、それでも気丈に振る舞っておいらを介助し、知人友人から輸血を募り、仕事をした。真のヒーローは家族なのである。ファイルの最後のページに1枚のレシートが挟まっていた。退院前日の夕方に買ったケーキのレシートのようだ。おそらく退院した日に家族でケーキを食べて祝ったのだろう。それはおいらと家族が長い苦しみから解放され、ヒーローから普通の家族に戻った瞬間だった。

まめに生きる

この冬もまた、年末から妻と息子が南の島を離れ、遠く離れた山国へスキーの留学に旅立った。おいらは3ヶ月間一人お留守番である。正直、爆発的に寂しい。年々一人でいることが寂しくなっている。入院をした時には、退屈さとあいまって昼夜を問わず寂しくてたまらなくなる。恥ずかしながら、枕を濡らすこともしばしばであった。

 かなしみや虚無感から脱するためには、どうしたらいいだろうか。楽しく派手なことをしたらいいのかな。贅沢なご馳走を食べたり、友人知人と遊んだり騒いだりしようかな。でもそうした非日常的な生活は、それが途切れた時返ってかなしみが増幅しそうだ。それにそんな羽目を外した生活をしたら、妻と息子を幻滅させるだけだ。

 何かこう一見地味でも、人様に恥じない真面目なことをすればいいんじゃないだろうか。そう考えながら、ふと台所の床を見ると、青大豆の袋が転がっていた。妻が買っておいたか誰かにいただいたものだった。これだと思った。豆を煮て保存食にして色々な料理に活用したら、なんかすごく健康的な感じがする。とはいえおいらは今まで豆を煮たことがない。妻が時々作ってくれていたが、長時間水で戻したり、煮た後に土鍋の余熱で一晩寝かせていたりして、随分と手間がかかっている感じだった。でも手間ひまをかけて丁寧に豆を仕込むなんて、食べること生きることにすごく丁寧に向き合っているように思えた。

 ネットで作り方を調べると、時間がかかるだけで意外と作り方は簡単だった。十分に時間をとって水で戻すのだけがコツのようだ。水で戻していく途中、早く戻らないかなと何度も何度も豆の様子を見にいった。少しずつ変化していく豆の様子がまたワクワクした。最初の一時間でシワシワになって、表面の薄皮が剥がれそうになってきた。もしかして、この薄皮は剥がした方がいいのかなと思い、何粒か剥がしてみた。中からは緑色のきれいな身が出てきて、すごく美味しそうだ。いっそ全部剥がそうかと思ったが、ネットでは皮をはがすようにとは書いてなかったので、不安になってやめた。

 危なかった。5時間後くらいには、中の身も水を吸って膨らみシワシワだった表面がなくなってきた。一方、薄皮を剥いてしまった何粒かは、身がボロボロに崩れてしまっていた。もし全部剥いていたら恐ろしい状態になっていただろう。8時間ほど水につけると、豆は最初の大きさの2倍以上に膨らんで、表面も綺麗にツルツルになった。その後は30分くらい煮て、妻をまねて土鍋に入れたまま余熱で一晩寝かせた。翌朝、豆の出来具合を見るのがたのしみで仕方なかった。一人になって半月。初めてかなしみを忘れて眠りにつくことができた夜だった。

 朝起きると、真っ先に豆に向かい何粒かスプーンにすくって味見した。うーん、予想以上の出来栄え。程よい硬さ。優しい塩味。ほんのりと香る大豆の匂い。特別うまくもまずくもない味だけど、豆本来の純粋な味。その煮豆を活用して、早速ひじきの煮物を仕込んだ。ひじきの黒に豆の緑色がまたよく映える。めちゃくちゃ美味そう。はあ、妻と息子にも食べさせたいな。そう思ったら急に二人のいない現実に引き戻され、鮮やかな緑色が滲んで灰色にくすんでいった。

命の品定め

最近、おいらの住む南の島のサンゴ礁を巡って、世界中を巻き込んだ論争が起きている。軍事利用のためにサンゴ礁が埋められる事態が迫っており、その保全が争点の一つになっているのだ。おいら自身は、生物学者の端くれとして保全を願っているが、生物保全の意義を科学的に説明することは実はかなり難しい。おいらの足りない知識で申し訳ないが、なぜ科学的意義付けが難しいのかをおいらなりに説明してみたい。

 生物学の一分野に保全生物学という分野があり、この数十年で急速に発展した。保全生物学の理論では、生物とくに生物多様性には、環境浄化、気候や生態系の安定化、生物資源の生産など、人類では到底達成できない莫大な価値があるとされる。これらは実際に多くの研究で実証されており、生物多様性を経済価値で評価すると恐ろしい金額になる。しかし、こうした経済価値を重視した視点では、経済価値のない生物種や生態系は破壊して良いという解釈もできてしまう。あるいは、その場所の生態系を保全した時の経済価値より、そこを開発して新たに生み出される経済価値の方が大きければ、開発して良いというお墨付きを与えてしまいかねない。それは生物保全という本来の目的からは、なんだか逸脱してしまう。

 生物多様性には経済価値とは別に、歴史的価値という考え方もある。人は、歴史上古いものには特別な価値があると感じる。それは失われたら二度と生まれない貴重な存在だからだ。例えば、国宝となっている建物や仏像などは、厳重に保全したくなる。それと同様に、生物種もまた地球が生み出した歴史の産物である。ある生物種が絶滅すれば、その種は二度と生まれることはない。だがこの考えにも保全上の限界がある。生物進化上古い時代に誕生した種は価値が高いが(例えば生きた化石と言われるシーラカンスとかイチョウなど)、比較的最近種分化した種は価値が低く扱われてしまいかねない(遺伝的に極めて類似した近縁種がいるため)。おいらの住む島には島固有の生物種も多いが、それらは残念なことに比較的新しく種分化したものばかりだ。だから保全上価値が低いなんて評価が下されかねない。

 もう一つ歴史的価値と類似するが、希少性というのも生物の価値の一つとみなされる。例えば、島固有種は世界中でその島だけにしかいない生き物であり、個体数も少なく極めて希少な存在である。我々の日常生活でも、限定品やらオリジナル品などは高いお金を払っても得たくなる。希少性は生物保全において重要な価値であるが、それを重視しすぎると、島など固有な生物が多い地域ばかりが保全対象になる。そのような場所は、大概面積が小さく他の地域と隔離されていて、地球全体の生物多様性に占める割合はごくごくわずかである。そこにコストをかけて重点的に保全すると、もっと大規模な地域の保全がおろそかになってしまい、結果として地球全体の生物多様性は大幅に減少しかねない。

 生物保全にかけられるコストは有限であり、全ての生態系をまんべんなく保全することはできない。そのため、どこにどれほど保全コストをかけるのかが難しい問題である。経済価値、歴史的価値、希少性、そのどれを重視するかで保全の手法や対象は大きく変わってくる。だから、今研究者にできることは、複数の保全案を提示することだけであり、どの案を選択するかは保全を実施する人(多くは行政などの実務者)が主観で決めるしかない。

 振り返って、島のサンゴ礁保全を考えると、経済価値、歴史的価値、希少性、いずれにおいても軍事的価値より高いように思えるが(少なくともこの島の人々にとっては)、賛成派の主張する安全保障や人命と比較されると、いかなる価値もそれより低くなりかねない。なにせ人の命は地球より重いのだから。ほら、答えが出ないじゃないか。でも、おいらが思うに人の命を心から大切に思えるなら、サンゴの命も大切だと思える気がするよ。だから、人とサンゴの命を天秤にかけるのは虚しいのだ。

親不孝な帰省

40才台になると、知人や友人に親が亡くなられる方が多くなってくる。それは悲しいことではあるが、親を見送れるのはある意味最高の親孝行なのではないかと最近思うようになった。すでになんども書いているように、おいら自身は50歳くらいが寿命だろうと予想している。幸いおいらの両親はまだ健在なため、きっと自分の方が親より先に逝く可能性が高い。しかし、おいら自身が自分の子供を持った今、子供が先に亡くなるのは親にとってすごく辛いことだと想像できるようになった。

 3年ほど前の地獄入院で死にかけた時は、親や家族にかなりショックを与えてしまったようだった。それ以来、親は精神的にも肉体的にも弱っていっているように感じる。今までは親の死に目を想像できなかったが、最近は少しずつ現実味を感じるようになってきた。そんなことを考えたら、年末くらい親に会いに行こうかなという気になり、明日から南の島を離れ帰省することにした。

 妻と息子は、この冬もスキー留学のため南の島を離れる。すでに数日前に島を飛び立って、留学先である山岳地域に移動していた。明日から親の住むところに皆合流して年末年始を過ごす。南の島に比べると、親の住む地域は30度近くも気温が低いので、寒さがとても不安である。そのため、冬山登山をするぐらいに防寒ウェアをリュックに詰め込んだが、恐ろしい重さになってしまった。一人で重い荷物を背負って飛行機、電車、バスを乗り継いで長旅をするのは、かなり辛い。寒さと重さと旅の疲れで、親を気遣うどころかおいらが看病される羽目になりかねない。

 しかし、そんな試練をかいくぐるからこそ、久しぶりに親や家族と再会できることが格別楽しみに思えてくる。なんてのは建前。本当の楽しみは、帰省先でのグルメや温泉を堪能することだよん。もう防寒ウェア以上に入念に調べて、行きたいお店をリストアップしたからね。さらに道中も口寂しくならないよう旅のお供のおやつも買い込んで、ますますリュックが重くなったよ。だから防寒ウェアを一つ抜いちゃったよ。

静と動

おいらの心臓は、生まれた時は静脈と動脈が混ざり合っていた。そのため、常に顔色は悪く、唇や爪は紫色、ちょっとした運動でも酸欠状態になり苦しかった。フォンタン手術を受け、その苦しみから解放された。静脈と動脈は混ざり合わなくなり、顔も唇も爪も血色の良い鮮やかな色に変わった。階段を登ったり、走ったり、とこれまでできなかった活動ができるようになった。フォンタン手術は、おいらの生き方を根本から変えるまさに革命的手術だった。

 南の島に移り住んで二年弱になる。この期間、おいらの人生は理想と現実がごちゃごちゃに混ざり合っているような感じだった。新天地で新たな研究に取り組み、そこで良い研究成果を残して正規の大学教員に就く理想に燃えていた。島の温暖な気候はおいらの心臓にもとても優しく、体調はみるみる回復していった。職場では、今までに経験がないほど人々に頼られるようになり、このブログでも多くの方々から励ましのコメントをいただいた。温かい人に囲まれてすごく嬉しかった。南の島に来る前は、一度は死の瀬戸際まで病状が悪化し、もう二度と研究も仕事もできないと感じていただけに、これ先明るい未来が開けるのだと夢見ていた。

 だが現実はそうした理想から程遠かった。新たな研究に取り組むこともなく、大学教員の就職活動もことごとく惨敗だった。論文を書く時間も体力もなくなり、かろうじて書いた論文も科学雑誌に投稿すれば片っ端から落とされた。研究者としての実力不足を思い知らされた。体調は、安定していると思えば急に心筋梗塞不整脈が発症し、薬の量も徐々に増えていった。職場で頼られているのも、病気をネタに愛嬌を振りまいて親しまれただけであり、本当に職場の役立っている実感はなかった。

 現実に合わない理想を抱え続けるのは苦しい。理想と現実が混ざり合わずに循環する、フォンタン手術のような魔法があったらいいのに。それは理想を現実に近づけるのでも、現実を理想に近づけるのでもない、もっと革命的な魔法である。もしそんな魔法にかかれば、どんな理想や現実であろうと、どちらも色鮮やかに見えるだろう。理想と現実、静脈と動脈、皆おいらの体の中を常に流れている。