ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

泣く勇気:心室細動入院後編

ICUに移ってから、当初の2日間の滞在という説明とは異なり3日目に突入していた。ICUでの生活は、気が狂いそうなほど口が乾き、鼠蹊部に刺さったシースのためにほとんど身動きが取れず、騒音と光で一睡もできない状況を耐え続けなければいけなかった。あまりに辛いため、担当の看護師に今日中に一般病棟に移れないものかと懇願した。しかし、医者の判断が遅れたためさらにもう1日滞在が延びることになりそうだった。

 おいらはICUのベッドの上で放心状態になりかけながら、天井を見つめこれまでの過程を思い返した。そして、いくつもの点に疑念がふつふつと沸き立ってきた。心室細動が起こることは事前の血液検査で十分予見できたのではないか。カテーテル検査中でも予兆となる心臓発作が起こっており、重篤な状況になる前に検査を止めるなどの判断ができたのではないか。右足鼠蹊部に無駄なシースを刺したことも事前にエコー検査していれば回避できたはずだ。そもそも心室細動が起こらなければ、鼠蹊部にシースを刺すことも、そしてICUに滞在する必要すらなかったのだ。それどころか、医者たちはそんなおいらの苦しみに全く意を介さず、さらに大掛かりな開胸手術の可能性をあれこれと議論し始めている。このままだらだらと不手際の多い治療を続けたまま開胸手術へと突入すれば、おいらはとてもじゃないが乗り越えることはできそうになかった。もう我慢の限界だった。おいらは怒りと絶望で涙を流し続けながら医者との闘いを決意した。

 担当の看護師さんがおいらの異変に気付いた。大丈夫ですかと声をかけられたが、おいらは答えられずただ頭を横に振るしかできなかった。深呼吸を繰り返してなんとか声を出せるようになると、「もういやだ。何もしなくていいのでICUから出たい。」と伝えた。その間も涙を流し続け、興奮と過呼吸で目の周りがしびれ始め、意識を失いそうになった。看護師は慌てて担当の医者たちに連絡を取ったが、誰一人繋がらなかった。医者に無視されているような気がして、おいらの怒りはますます増幅した。ようやく気持ちを落ち着かせて看護師さんにおいらの疑念を説明し、医者と話をさせてもらえるようにお願いした。

 その日の担当の看護師さんはものすごく親切な方だった。その看護師さんがいたからこそ、おいらは勇気を出して医者との闘いを決意できたように思う。この人だったらおいらの苦しみをわかってくれるだろう、決して無視したり流したりしないだろうと思えた。案の定、その看護師さんはなんとか一般病棟に戻れるように手配してくれて、おいらのそばを離れず励まし続けてくれた。その優しさに一度は止まりかけた涙が再び滲み出した。

 夕方一般病棟に戻った。4人部屋だったが、個別にカーテンで仕切られてプライバシーが確保されており、とても静かだった。助かったという深い安堵の気持ちからまた涙が溢れ頬を静かにつたった。しばらくして担当の医者がやってきて、面談が始まった。本来ならICUの看護師さんは一般病棟に移った段階で引き継がれるはずだが、おいらがお願いしたためその面談の場まで立ち会ってくれた。とても心強かった。面談は一般病棟の看護師さんも加わり、4名での面談となった。おいらはできるだけ感情的にならないよう、おいらの疑念について一つずつ丁寧に説明した。感情的になって論理性を失えば、医者はまともに聞いてくれないと思ったからだ。それに医者を攻撃することは目的ではなかった。おいらが何に疑念を持っているのか、そして今後どうして欲しいのかをわかって欲しかった。

 おいらは上記の疑念を伝えたのち、開胸手術などの今後の治療方針を検討せずできるだけ早く退院できることを最優先にして欲しいこと、担当医師を変えて欲しいことを願い出た。前者は受け入れられ、後者は病院や医師の都合もあり受け入れられなかった。そして最後に最も伝えたいことを話した。それは、おいらがその医者を自分の命を預けられるほど心から信頼できないことだった。今後、開胸手術のような命を賭けた闘いに挑むなら、なおさら信頼できる医師でなくてはならない。誰でもいいわけでは全くないのだ。たとえ病院の施設が整っていようとも、技術的には優れていようとも、おいら自身が信頼できなければ命を預けることはできない。それだけは譲れないことだった。

 おいらは当初医者が腹を立て、治療を放棄するのではないかと覚悟したが、医者も感情的にならずおいらの伝えたいことを理解してくれた。結果的に、この面談後はおいらと医者との心の距離が近づいたように感じる。医者からおいらが勇気を出して直接説明したことを感謝された。おいらもまた、面談後もおいらを避けたり嫌悪感を示したりせずに治療を続けてくれたことが嬉しかった。命を預けられるかは別として、その医者を信頼できるようになった。

 面談が終わり、気持ちが落ち着いた後、妻にことの顛末をメールで説明した。手術を拒否したり、医者を批判するなんて、呆れられるのではないかと不安だったが、妻は全面的に理解をしてくれた。そして、おいらが自分で決心したのなら、本当に信頼の置ける医者に手術をお願いしたらいいよと言ってくれた。その日最後の涙が溢れ出し、これまであった苦しみを洗い流してくれた。

 

  前編後編で終えるつもりだったが、心室細動に至った原因や心房細動が頻発した原因、そして今後の治療方針についての説明を書けなかったため、次回書き記しておこう。

我を失った心と心臓:心室細動入院前編

先日10日間ほど緊急入院した。それは過去に経験したことがない種類の苦しみを味わい、死を強く意識した入院になった。少し長くなるが、その詳細を記録しておこう。  

 年明け早々から体調はすぐれなかった。心房細動が発生し病院で電気ショックを受け一度は止めたが、すぐにその1週間後に再発し、再び病院で電気ショックを受けた。しかし、その二日後また心臓に違和感を感じ始めた。夜寝ているととても息苦しく、脈は強く打ち、脈拍も一定でなく、胸が締め付けられる感覚が続いた。これまでの心房細動にはなかった苦しさで、ついに深夜に救急車を呼び病院に運ばれた。

 心電図や血液検査等の簡易的検査でははっきりとわからないが、おいらの訴える症状から心筋梗塞が疑われ、緊急でカテーテル検査を行うことになった。耐え難き痛みと苦しみを伴うカテーテル検査は、何度受けても慣れることができないが、医者に身を委ねるしかなかった。早速複数の医者がおいらの周りを取り囲み、同意書にサインし、病衣とオムツに着替え、早々にカテーテル検査室に運ばれた。

 まず最初の関門は、導尿管の挿入。なるべく痛くないようゆっくり入れてくれていたが、その分貫通するまで時間が掛かり、きつかった。次の関門は、カテーテルシースの刺入。これが一番痛い。幸い刺入部は左手首の動脈になった。手首は足の鼠蹊部に比べてはるかに痛みは少なく、また検査後も足を自由に動かせるので圧倒的に楽なのだ。実際、麻酔やシースの刺入が行われると、過去の経験よりずっと痛みが少なくすんだ。残す痛みの関門は、シースを抜くときくらいだ。これは経験上、刺すときに比べれば全然軽い痛みなので、なんだか一仕事終えて一服したいくらいの余裕が出てきた(実際おいらはタバコを吸ったことはないけど)。しかし地獄はこれからだったのだ。

 手首のシースからワイヤーを通し始めると、医者は急にテンポを速め、ワイヤーが何度も血管に引っかかり、その度にツンツンと体内から痛みが響いた。これはのちに腕のあちこちで内出血を引き起こす結果となった。やがてワイヤーが心臓に到達すると、休む間もなく造影剤がだくだくと流し込まれた。モニターにX線で投影されたおいらの心臓が映しだされ、造影剤が流れると冠動脈の姿が浮かび上がった。そしてついに地獄の扉が開かれた。何度か造影剤が流されると、突発的においらの心臓は心室細動を起こし始めたのだ。その度に医者は心臓マッサージを行った。心室性の不整脈が起こると、全身に血が流れなくなり、強い貧血に襲われたように意識を失いかけた。意識を失いかける時は、よく聞く話と同様に時間がゆっくりに感じ、「あー、これ、は、ま、ず、、い、、、、か、、、、、も」と心の中で呟いていた。そして再び心室が動き始めると、パッと目が覚めたように意識がはっきりした。記憶のある限り、このプロセスが2回繰り返され、その後完全に意識を失った。

 どれほどの時が経った後なのか、はっと意識が戻った。最初自分は今どこにいて何が起きているのか状況が全くわからなかった。そういえばカテーテル検査を受けていて、いつの間にか意識がなくなっていたのか、ということが徐々にわかってくると、それにかぶさるようにむちゃくちゃ苦しい状態にあることに気づいた。息ができず、全身が燃えるように熱くびっしりと汗をかいていた。目も見えているようで見えない。おいらはハアハアと口で息をしながら、呼吸とともに呻きのような叫び声をあげ続けていた。「あ、あ、あ、あ、熱い、熱い、熱い、痛い、痛い、痛い、苦しい、あ、、」。恐怖で我を失いそうだった。看護師さんがおいらの顔の汗を拭き、「大丈夫だよ、大丈夫だよ」と声をかけてくれると、おいらはすがる思いで、「何、どしたの、死ぬの、熱いよ。」と呼吸に合わせて言葉を叫んだ。目は見えないが、おいらの周りを人々が慌ただしく動き、医者がおいらに腕を伸ばすように声をかけているのが聞こえてきた。どうやら意識を失っている間に、体が硬直し腕を胸のところに丸めたらしい。その際、左手首のシースが外れ、そこから大量に出血している状況がなんとなくわかってきた。医者たちは止血処置をするため、腕を伸ばすよう言っていたのだ。あとで聞かされたことだが、意識を失っている間おいらの心臓は止まり、電気ショックを3回やり、心臓マッサージをし続けていたらしい。その際体が硬直したため、電気ショックをかけるのに手こずり、緊迫した事態になっていたようだった。

 なんとか事態は収束した。「一旦休憩しましょう」という医者の声が聞こえた後、しばらく静かな間があった。おいらは未だ状況がつかめかったが、苦しさが収まったため落ち着きを取り戻すことができた。間も無く医者がまた集まり始めた。検査はもう終わったのかなと思っていたら、執刀医が「また不整脈が起きたときにすぐ処置ができるよう、足の付け根にシースを挿した状態にしておきますね」と声をかけると、何やら付け根を消毒し始めた。え、また始まるの。しかも今度は特に痛い鼠蹊部なのか。おいらは恐怖でまた呼吸が荒くなってきた。医者は間髪入れず麻酔を刺し始めた。やっぱりめちゃ痛い。おいらはまた叫び始めた。

 ここでさらなる不運が襲う。シースは動脈と静脈両方に留置する必要があったが、おいらの右足鼠蹊部は数々のカテーテル検査で静脈が潰れていた。しかし、医者はそのことに気づかず、何度もガイドワイヤーを通すための太い注射針を差し込んで静脈を探っていた。その度においらは痛みで叫びまくった。ようやく医者は異変を感じ、エコーで調べてみると静脈が見つからないことが発覚した。結局静脈は左足鼠蹊部から取ることになり、左右両方の足にシースを留置された。

 カテーテル検査が終わった。幸い冠動脈の閉塞は見つからず心筋梗塞ではないことがわかったが、致死性の心室不整脈が起こった場合に備え、1、2日間ICUに滞在することになった。ICUでは、過去の経験と同様に強烈な口の渇き、騒音、光といったストレスが絶え間なく続いた。さらに、当初の話と変わってICU滞在が3日間続き、4日目に突入しそうな話になってきた。もうおいらにはICUで耐える気力が残っていなかった。そして、これまでに起きた過程を思い返すうちに限界に達したおいらは、命を懸けた反撃に出ることにしたのだった。長くなったので、その続きはまた次回記したい。

息子いれば憂いなし

年明けから息子と二人暮らしをしている。妻は、昨年同様冬の期間は友人の観光業を手伝いに、本土の山間部に長期滞在しに行った。昨年までは息子はスキー留学のため、妻と一緒に行っていた。しかし、息子は中学に入るとスキーへの情熱が冷めてしまい、今年はおいらと共に南の島に残ることにした。

 昨年おいらが独りで生活しているときは、寂しくてたまらなかった。だから、今年は妻が独りでさみしくないだろうかと内心気がかりであった。でも妻はそんなそぶりを少しも見せず、むしろおいらと息子の二人暮らしをかなり心配していた。男二人なので、日常の掃除・洗濯・料理がちゃんとできるかというのもある。でも何よりおいらの体調が悪くなり緊急入院した場合を心配していた。だから、もしそうした事態になった時の対応を事前にしっかりと決めておいた。いくつかの緊急連絡先をお互いにメモする。息子は出かけるときは必ず家の鍵を持ち歩き、おいらがいなくても家に入れるようにする。家に帰ったときにおいらがいなければ、すぐにメールする。それでしばらく返事がなければ妻に連絡する。といったルールである。また、万が一数日間息子が一人で過ごす羽目になった場合にも備え、レトルト食品などの非常食もいくつか用意した。一つ一つはごく当たり前の些細な事であるが、こうしたルールを明確にしておくといざという時の不安が全く違ってくる。

 より重要なのは、緊急事態にならないための予防策である。おいらが体調を崩したり不整脈になる原因は不明な面もあるが、疲労やストレスが一因なのは間違いない。だから、息子にも少なからず家事をがんばってもらう必要がある。米研ぎ、食器洗い、風呂・トイレ掃除は以前から息子の当番だったが、夕飯の支度も週に2−3回はしてもらうことにした。今晩は息子にシチューを鍋一杯に作ってもらった。明日の夜の分も十分にあるので、これで二日間休むことができる。作るのに2時間以上かかり、人参やジャガイモはシチューには小さすぎる大きさに切られていたが、優しい美味しさだった。何より、作った本人が美味い美味いとがっついている姿が、シチュー以上に温まった。

f:id:susukigrassland:20200115223904j:plain

 息子は物心つく前からおいらの病気を身近に見てきており、4年半前のフォンタン再手術では妻たちと共にずっと立ち会っていた。そうした出来事が、息子の心にどのように刻まれたかはわからない。とても怖かったり不安だったかもしれないし、ただわけがわからなかっただけかもしれない。でも文句ひとつ言わず作った息子のシチューには、家族を助けたいという強い覚悟が煮込まれているのがはっきりとわかった。そんな息子は、まるで少し大人に成長したことを証明するかのように、夕食後歯が一本抜けた。

フォンタン循環における肝臓および腎臓の末端器官障害

新年早々、再びフォンタン術後の肝機能障害についての研究を紹介する。この論文では腎機能障害についても詳しく分析している。

ーーーーーーーーーーーーーー 

Wilson, TG. et al. (2018) Hepatic and renal end-organ damage in the Fontan circulation: A report from the Australian and New Zealand Fontan Registry. International Journal of Cardiology 273: 100–107.

背景:フォンタン術患者では、肝機能および腎機能の障害がしばしば合併症として生じるが、その発症率や要因は十分に検証されていない。

方法:フォンタン患者152人(平均19.8±9才)が、腹部超音波、FibroScan(肝硬化検査)、FibroTest(肝線維化血清検査)、mGFR値(糸球体濾過率)および尿アルブミン/クレアチニン比検査のいずれかまたは全てを受け、その検査結果を詳細に分析した。

結果:被験者のフォンタン術後経過年数は14.1±7.6年。肝線維症の兆候は、超音波検査では61%の患者で見られたが、肝癌と診断された患者いなかった。 肝硬化検査では、10以上(117/133人、88%)、15以上(75人、56%)、20以上(41人、31%)であった(5以下は正常、17以上肝硬変)。 118人中54人の患者(46%)がFibroTestスコアが0.49以上(F2線維症以上)であった。

 腎機能障害は、46/131人(35%)が軽​​度(mGFR 60–89 ml/min/1.73m2)であり、3人(2%)で中程度(mGFR 30–59)。微量アルブミン尿は、52/139人(37%)で検出された。これらの肝機能障害や腎機能障害の兆候はフォンタン術からの経過時間とともに増加した。

結論:フォンタン術後20年以内に、多くの患者で肝臓および腎臓に機能障害が見られている。したがって、フォンタン術後は肝機能および腎機能の変化を注視して観察する必要がある。

ーーーーーーーーーーーーー

 なかなか気が重くなる内容であった。さらに論文の中では、「現在、フォンタン循環における末端器官の障害を防ぐための有効な医学的治療法はない。」とまで言ってしまっていた。そんなこと言わずに、なんとかしてくれと言いたいところだが、冷静に客観的視点で解釈すれば必ずしも悲観的になる必要はないかもしれない。まず、論文の考察でも述べられていたが、被験者数が少ない上、分析データがある一回の検査を対象にしている。これでは、より正確な結果を得るには不十分であろう。一方、この論文で行われた検査はいずれも非侵襲的な検査であり、気軽に受けることができるものばかりである。だから、普段の診察の際に、これらの検査をたまに行ってもらうのが良い。もしそれでなんらかの兆候が検出されたならば、症状が悪化しないような治療や生活習慣にすることでかなり対処できるはずだ。

 おいらもまた肝障害と腎障害が多少なりともあるが、リーバクトという肝庇護の薬を飲んだり、食生活を工夫するなどで症状の悪化を今のところ抑えられている。肝心・肝腎という言葉があるように、肝臓、腎臓、心臓は人体にとって欠かせない存在であり、三者一体である。しかし、それゆえにそのどれか一つが弱ると共倒れしかねない脆さを秘めている。

心臓と脳の心

昨年末は生きがいや希望を見失いかけ、どうしたらよいかわからなくなり、姉や知り合いに相談してみた。姉からは慰められるどころか、「つまらなさを誰かのせいにしているうちは愉しくならない。なにがつまらないか、どうしたら面白いかを考えなさい!」と、厳しい言葉をかけられた(実際にはおいらに直接言ったのではなく、自分の子供にそういう風に怒ったんだという話をして、間接的においらにも言っているのかなと解釈したのである)。知り合いの方からは、「もう仕事なんてやめて生きればいいんじゃん」と、ますますどうしたらよいかわからないことを提案された(その人はおいらの知る中で最高の自由人なため、達観しすぎてておいらにはまだとても到達できない次元なのである)。しかし、姉も知り合いの方も、言いたいことは共通している。明るい兆しはただ待っていてもやってこない。明るくなるよう自分が行動していかなければならないということなのだ。

 そんなわけで、今年は色々新しいことに挑戦したり、自分の身の回りの環境や生活を変えていこうと思っている。まず年明け早速やったのは、家の中に落ち着いて勉強できる空間を確保することだった。以前から勉強机はあったが、それはリビングにあり、近くにテレビがあって集中できる空間ではなかった。また、長時間座れるワークチェアもなかった。そこで、息子に手伝ってもらって部屋の模様替えをし、ワークチェアも新調して、寝室を書斎にリフォームした。もう早速毎日勉強しまくりである。

 それから、これは昨年の11月末から始めたことだが、毎日30分単位で行動記録をつけることにした。手帳などに手書きしていては面倒なので、エクセルに入力して記録していく。行動はあらかじめいくつかにカテゴリーわけしておき、例えば仕事(Work)ならWo、家事(Domestic task)はDo、勉強(Study)はSt、休憩(Rest)はReといった具合に入力する。こうして入力した記録を自動で色付けして集計できるように、エクセルマクロでプログラミングした。以下が先月のおいらの実際の行動記録である。これを見れば自分がどのくらいどんな行動をしているかが一目瞭然であり、もっと勉強しようといったモチベーションを高めることができる。

f:id:susukigrassland:20200105222308p:center 

 他には、英語や楽器を習い始めたいと思っている。英語は仕事上の必須スキルだが、おいらはとても苦手で、それがまともな研究職につけない大きな要因になっている。それに新しい職に就くにも、英語ができるかどうかで選択の幅が大きく違ってくる。つい先日も英語がネックで新しい仕事への応募を断念した。楽器は大学生の頃ジャズサークルに入ってベースを弾いていたのだが、卒業以来ほとんど弾かなくなってしまっていた。でもジャズは妻と出会い結婚するきっかけになったものであり、もう一度演奏できるようになって妻にいいところを見せたいと密かに思っているのだ。

f:id:susukigrassland:20200105223205p:plain

 こうしておいらがいろいろやろうとするもんだから、おいらの心臓くんも独り言を言い始めたようだ(Fontan biologist (@FontanBiologist) | Twitter)。 まあ好きに言わせてあげよう。心臓の気持ちと脳の気持ち、どちらがおいらの本心なのだろうか。

フォンタン術後のタンパク漏出性胃腸症患者における臨床成果と生存率の改善

今年最後の記事は、少し明るい報告の論文を紹介して終わりたい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

John, AS. et al. (2014). Clinical outcomes and improved survival in patients with protein-losing enteropathy after the Fontan operation. Journal of the American college of cardiology 64: 54–62.

背景:Fontan手術後のタンパク漏出性胃腸症(PLE)の患者は、発症後5年の死亡率が50%と報告されてきた。しかし、現在では治療の進歩により生存率が改善した可能性がある。そこで本研究は、フォンタン術後PLE患者の現在の状況を改めて調査した。

方法:1992年から2010年でのフォンタン術後PLE患者42人(男性55%)の臨床結果を分析した。

結果:PLE診断時の平均年齢は18.9±11歳。フォンタン手術は10.1±10.8歳で行われ、フォンタン手術からPLE診断までの平均期間は8.4±14.2年である。患者の生存率は5年88%、10年72%であった。死亡した患者は生存者と比べて、フォンタン圧(肺動脈圧と思われる)が高く(平均値>15mmHg)、心機能が低下し(駆出率<55%)、NYHA心臓機能クラスが2以上であった。また、死亡患者は、肺血管抵抗が高く、心係数は低く(1.6±0.4l/min/m2)、混合静脈飽和度も低下(53%)していた。つまり、高い静脈圧と高い肺血管抵抗の両方が、フォンタン経路への受動的静脈還流を妨げ、心拍出量(心係数)が減少する原因となった。

 PLEの生存者でより頻繁に使用される治療法には、スピロノラクトン(浮腫改善)、オクトレオチド(腸管治療)、シルデナフィル(肺高血圧改善)、開窓形成(フォンタン圧低下)、フォンタン狭窄の軽減(心拍出量改善)などがある。また、不整脈治療、肝機能障害への注意、高タンパク低脂肪食、貧血、甲状腺機能障害、睡眠時無呼吸等の心外症状への治療なども重要である。

結論:PLEの治療は複合的であり、依然として困難であるが、治療の進歩により生存率は著しく向上した。PLEのメカニズムやPLEの効果的治療戦略を解明するためには、さらなる研究が必要である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

 おいらは6年前にPLEが診断された。その時もこの研究の背景にあるように、5年死亡率50%、10年死亡率90%だと医者から告げられていた。3年前にはPLEが悪化し消化管出血を起こし、かなり危機的状況にまで落ちいった。その時は、食事も取れず、胃腸は常に痛くて気持ち悪く死を覚悟した。しかし、この論文に書かれているような様々な治療を行って奇跡的に回復し、気づけば5年を過ぎていた。そして現在は、多少の波はあるものの、危機的な状況になるリスクは少ない。このまま状態が安定していれば、PLE発症後10年生存も難しくはないだろう。本当にありがたいことである。

 でも何がありがたいって、5年以上生きられたおかげでこの冬公開されたスターウォーズ完結編を観られたことである。もうおいらはPLEを恐れないのだ。恐れは暗黒面に通じている。

May the Fontan be with you

クリスマスも終わり、今年もあとわずかとなった。今年は正直暗い年だった。おいら個人的な面では、不整脈がたびたび発生し体調が安定せず、研究職の夢を諦めかけ、科学雑誌に投稿した論文は雑誌編集者から聞いたことがない理不尽な扱いを受け、職場はブラックになりつつあり、今の仕事にやりがいを失い、さらに独りの時間が増え寂しさに惑わされていた。ネガティブ思考に陥り、悪い面ばかり意識が向いていただけかもしれないが、辛い一年だった。そしてそれに追い打ちをかけるように、社会的にも暗い不気味な影がこの国を覆い始めているように感じていた。今の政治状況は、吐き気がするほどあまりにひどく、不整脈が発生するのもそのストレスが一因になっていてもおかしくなかった。

 来年は明るい兆しが見えるだろうか。政治状況に関しては、ようやく現政権の暗黒面が明るみになりつつあり、もしかすると来年早々には政権終焉を迎えるかもしれない。しかし、もし政権が存続し続ければ、この国が終焉を迎えるであろう。権力者が国を完全に支配すれば、人々の人権と命はないがしろにされていく。そうした状況になったとき、歴史を振り返れば例外なく、おいらのような障害者を含む社会的弱者が真っ先に差別と迫害の対象になる。そして行き着く先は、命そのものが奪われる。現政権が続けば、近い将来必ず何かしら目に見える形で差別や迫害が現れるとおいらは覚悟している。

 しかし、命は本来決してないがしろにできないものである。生物学を深く学ぶほど、命の重みや美しさを否定できなくなる。一つの生命がこの地球上に誕生することが、どれほど神秘的なことであろうか。それは長い生命史の中で、数えきれないほどの偶然と必然が組み合わさり誕生したまさに奇跡の産物なのだ。一人の人間が誕生し生きていく間には、約2万の遺伝子が絶妙なタイミングとバランスで相互に連携しながら発現する。なぜどのようにそのような巧妙なシステムが創造できたのか。それはまだ誰にもわからないが、あまりに美しいことは誰にでもわかる。権力者は美しい国などと簡単にのたまうが、美しさはそう容易に目指せるものでも創造できるものではない。真の美しさは、生命のようなものであるはずだ。

 おいらは障害を持って生まれたことで、生命の美しさに生物学的側面以外からも少し近づけることができた。それはとても幸運なことに思う。物事を複数の面から理解することは、より真理に近づける可能性があるからだ。暗い気分を来年に引きずり続けていてはいけない。来年末には、はやぶさ2が生命誕生の謎に近づく決定的証拠を持ち帰ってくれるかもしれない。おいらも生物学と闘病体験を組み合わせて、おいら独自の視点で生命の謎に近づく研究をすればいいのだ。おいらが解明する生命の謎は、はやぶさ2よりはるかにちっぽけなことだろう。でも、権力者が目指す美しさより、確実に真の美しさに近づける自信はある。

 その前に、スターウォーズ最終章を鑑賞してこの一年の暗黒面から脱しよう。フォンタンと共にあらんことを。