ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

死までの近さ

志村けんコロナウイルス肺炎による急死によって、死が他人事ではなく急激に身近に感じた人も多いだろう。自分のよく知っている人、好きな人、身近な人が亡くなってしまうということが現実に起きたのだ。もしかすると、もっと身近な人あるいは自分自身にも、そのリスクがあるかもしれない。そんな不安と悲しみが混ざりあって、人それぞれ様々な感情が沸き起こっている。ある人は深い哀しみに落ち、ある人は怒りに転化し、またある人は故人に感謝し、そしてある人は大切な人を守りぬく決意を新たにする。感情は違えど、どれも他人を想うという気持ちは同じである。それだけ、彼は人々に愛され、また彼自身も人を想う人だったのだなと感じ、不謹慎かもしれないが感謝のような嬉しさのような、そして憧れの感情が出てしまった。これからも人々の心の中でおふざけをして笑わせてくれることを願っている。

 ところで、死が他人事でなく身近に感じるという気持ちは、先天性心疾患患者とその家族にとっては、今回始まったことではなく、常に頭の片隅に漂っている。手術をしたり容態が悪くなれば、片隅どころか頭全体を埋め尽くし、溢れ出さんばかりになりもする。おいらはこの感覚を、長年の経験と修行から、より具体的な数値によって客観的に感じられるようになった。例えば、もし死と生の間を0から10で表すとすれば、普段いるところは3、将来的な回復や改善が見込まれるときは4や5になる。しかし一方で、体調がじわじわ悪化しているときは2に足を踏み入れている。先日心室細動が起こったときは、1を切っているように感じられた。だから、思わず「死ぬの、死ぬの」と叫びながら看護師さんに尋ねてしまった。

 おそらく、若く健康な人であれば、8か9、すごい人なら10のフロアにいると感じているだろう。おいらは8から10のフロアに立ったことがないので、そこがどんな世界なのかは想像もつかないが、その世界にいる人にとっては死すなわち0はあまりにも遠い。だから死を身近に感じることは極めて難しくて当然なのだ。そこはおどろおどろしい闇の世界であり、無が支配しているのか、それとも恐ろしい鬼たちがのさばっているのかはわからないが、恐怖と絶望の世界に見える。

 おいらも0の世界がどんな所かはもちろんわからない。でも、なぜか恐怖と絶望の世界には思えないのだ。うまく表現ができないが、おいらという生き方が終わったんだなと思える世界に感じる。そこには、後悔や無念や良いや悪いといった人生の評価や感想はなく、終わりというたった一回の出来事をじっくりと味わう世界。ある意味で命の究極の答えがわかる世界なのではないだろうかとも思える。だから、楽しみとは言わないが、命あるものの宿命としていつでも受け入れる覚悟はできたつもりである。

 最後にもう一つ不謹慎なことを述べて、志村けんへのお別れの言葉にしたい。おいらも先天性心疾患とともに40年以上生きてきて、最後はあっさりコロナで死んだら冗談じゃないと思いもする。え、そこ?ちょっちょっと勘弁してよ。今までの苦労はなんだったの。ダメダメもう一回やり直し。と言いたくなる。でも、おいらの人生は、先の予想がつかない究極の場面の連続だった。だから、コロナという全く予想もしていなかった死に方もその連続線上にあるかもしれないのだ(*1)。志村けんの死は、人生は予定調和でなく、だからこそ面白いのだと教えてくれるものであった。おいらも心臓が原因で死ぬなんて予定調和である必要もないのだ。あー、でもドリフの笑いは結構予定調和だけどなぜか面白いなあ。

 

*1 予想がつかない連続線上とは、ランダムウォークという確率論をイメージしたものである。ランダムウォークの動きの中では、どんなに中心付近をうろうろ歩いていても、あるとき突然に0に落ちてしまう事が起こりうる。