ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

総合的俯瞰的包括的網羅的な期待

日本学術会議の会員に推薦された候補者のうち、6名が菅総理に任命拒否されたことについて波紋が広がっている。今日は、研究者の底辺にいるおいらにとっては正直雲の上の遠い世界のようなこの問題について考えてみたい。以下に書いたことは学術会議側、総理側それぞれの言動を批判したものであり、それぞれから反感を買って袋叩き必須の内容である。

 実は、今回の問題が起きるまではおいらは日本学術会議という組織自体を知らなかった。もしかするとどこかで聞いたことがあったのかもしれないが、全く記憶がない。日本学術会議は学者の国会と例えられたりしているが、これまで10数年間大学研究機関に所属して、おいら自身が会員を推薦したりもちろんされたりする機会は一度もなかった。だから、誰を会員に推薦するかは、全研究者が投票などして決めているわけではなく、もっと上の偉い先生方がどこかで決めているのであろう。

 日本学術会議の会員名簿を見てみると、おいらが専門としている「生態学」関連でも何名かの研究者が会員になられていた。どの方も大学で教授職につき、膨大な研究業績を上げ、数多くの弟子を育て上げた、著名な大御所の研究者ばかりである。ただ、生態学という分野が学問分野の中では規模が小さいのか組織力がないのかはわからないが、そんな大御所先生であっても連携会員ばかりで正規の会員の方は見当たらなかった(実際はおられたらすみません)。つまり、今回の任命拒否問題の対象にすらならないのである。そんな訳で、3流研究者のおいらがこの先永遠に日本学術会議の会員に推薦されたり、何らかの関わりを持ったりすることはありえず、だから冒頭に述べたように雲の上の遠い世界の問題に感じてしまっていた。

 今回の任命拒否問題で最も問題視されている点は、学問の自由や言論の自由が侵害されるのではないかという懸念である。確かに総理の個人的判断で、ある特定の思想や研究を行う研究者が会員に任命されないことが起これば、長い目で見ると学問の萎縮につながる恐れはあるだろう。でも、同じ研究者でありながらあえて反論すれば、そもそもこの日本学術会議がこの国の学問の自由を守っているのかが、全然実感がわかないのだ。これまでおいらは自分の研究を計画し実施する上で、自分の判断で自由に行うことができた。もちろん研究予算や研究場所、労力など様々な制約はあったものの、それは誰かから自由を侵害されたためではない。予算を獲得しようと思えば応募する機会はたくさんあったし、研究場所を世界の果ての秘境にすることだって(予算やおいらのスキルが可能なら)できた。もしかしたら、おいらが知らないだけでおいらが自由に研究活動をできたのは、この組織のおかげなのかもしれない。でも、どうにもそうした実感はわかず、そのことを示す根拠も見当たらないのだ。

 もう一つ、先に述べた正規会員に生態学者が選ばれていないことが示しているように、日本学術会議が日本の全学問分野から平等に会員が選ばれているわけではないのも確かだろう。それは意図したものではないだろうが、結果としてどうしても会員のいない学問分野の声はこうした会議に反映されにくくなる。つまり、否が応でも学術会議の提言や学問的指向に偏りが出てしまうのだ。こうした状況を考えても、日本学術会議という組織の存在によって全ての学問の自由や言論の自由がどこまで守られるのかが純粋に疑問に感じてしまうのである。

 そんなわけで、今回の任命拒否によって学問の自由が侵害されるならば、その具体的根拠や証拠を示すか、あるいはいっそ日本学術会議の会員がどうなろうとも我々個々の研究者は今もそしてこれからもずっと自由に研究するのだという気骨ある姿勢を示すことを期待したい。

 さて、この任命拒否問題でもう一つ重要な問題点は、任命拒否した理由を総理がはっきり説明しないことである。これはおいらも全く納得できない。説明なく拒否するなんて、既読無視よりある意味感じ悪い。夫婦のどちらか一方が急に説明もなく不機嫌になって無視したりすることは、どの夫婦でも一度や二度はあるだろう。夫婦関係であればそうした急な不機嫌な態度も相手への甘えの現れとして理解できる面もあるが、今回は夫婦関係でもなく、また意図的に説明を避けており、ともかく不可解でストレスが溜まる。その後総理から「総合的俯瞰的活動を確保する観点」という全く説明になっていない理由が述べられ、さらに反感を買う事態になっている。

 ところで、総合的も俯瞰的もどちらも英語にすると、ほぼ意味としては同じ"comprehensive"と表すことができる。そして実はこの"comprehensive"という単語は研究論文で非常によく使われており、試しにGoogle Scholarで2020年以降に発行された論文を検索すると約122,000件の論文や著書でcomprehensiveが用いられており、研究者が大好きな言葉なのがわかる。comprehensiveというワードを使うことで、その研究がいかに壮大な視点で(俯瞰的、網羅的、包括的、総合的に)行ったかを強調できるので、研究をアピールする上でとても強力なワードなのだ。かく言うおいら自身も、過去に書いた論文のうち2つで使用していた。菅総理は意図したわけではないだろうが、研究者が大好きな「総合的俯瞰的」という言葉を使って意味不明な理由を述べたのは、ある意味すごい皮肉が効いているとも言える。

 話を戻すと、「総合的俯瞰的活動を確保する観点」という意味不明な説明が象徴するように、菅総理はまともに言葉を使えないことが、おいらはとてもうんざりしている。その点は前総理も同様に酷く、心の底から嫌だった。政治家は言葉を使って人々や官僚を説得したり納得させて、人を動かしていくことが仕事だとおいらは思っている。言葉を使えない政治家は、政治家として何の能力もなく役割を果たしていない。言葉が使えないから、代わりに金や権力で人を動かそうとする。実につまらないやり方である。

 一方で、圧倒的な言葉の力を持ったヒトラーのような政治家が出てくれば、国を極めて危険な方向に導いてしまう可能性もあり、今回の件でいえば日本学術会議も学問全体も根こそぎ破壊できてしまうかもしれない。そう思うと、まるで言葉の使えない政治家の方が最悪の事態にはならなくてすむのではという消極的な希望を感じてしまいもする。それでもやはり政治家には人々を動かす説得力ある言葉を期待したいのだ。政治家にかかわらず、人に伝わる言葉を使える人物においらはとても憧れている。

 おいらがこのブログを書く目的の一つは、おいら自身も言葉をより上手に使えるようになりたいためである。誰にでもわかりやすく病気のことや生物のことを伝えられるようになりたいのだ。そして、伝えることにより、少しでも病気に対する偏見や差別がなくなったり、病気を持つ方に勇気や希望を感じてもらえたり、生きる魅力を感じてもらえたら、人々が(そして何よりおいら自身が)、ほんの僅かでも今よりも豊かで楽しく生きられるんじゃないかと、comprehensiveに期待しているのである。

 

注:言葉が使えないとは、話すことができないという表面的な意味では全くない。人に意味が通じる言語表現ができないことを指す。