ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

マイペースな愛情

この時期にこんなのんきな話をしても99%の人が興味を引かないだろう。だからこそ、時代に流されないマイペースな話をしてみたいのだ。そう、おいらのもう一人の心の師匠で、ある意味マイペースを貫いた人物チャーリー・ヘイデンの話である。

 ヘイデンってどなた?と思った方も多いだろう。この時点でこの記事を読もうとしてくれる方の約半数は興味を失ったかもしれない。先日お話ししたおいらの一人目の心の師匠チャーリー・チャップリンに比べると、ヘイデンはるかに知名度は低い。チャーリー・ヘイデンとは、今はなきジャズベーシストの巨匠である。ジャズかあ。しかもベースなんて全然知らないよ、とさらに残った人の半分が脱落しただろう。

 今までこのブログではあまり書かなかったけれど、おいらは学生時代ジャズサークルに入りベースを弾いていた。そのころ、チャーリー・ヘイデンはおいらの一番の憧れの存在であり、ヘイデンのような演奏をしたくて彼のベースをひたすらコピーしていた。なんだ、同じ楽器を弾く憧れのミュージシャンだから師匠なのか。ごく普通のことじゃないかと、さらにここで半分くらいの人が興味を失ったに違いない。

 まあそう見捨てないでほしい。ではヘイデンのどこが素晴らしいのか。もちろん音楽的に素晴らしいことは言うまでもない。深いコクのある重い低音。アンプなどで極力増幅しない生音に近い木の響き。巨人が歩くようなもったりとしたビート感。早弾きや高音域の演奏といった超絶技巧を全くせず、リズムも時に無視し、スカスカに間の空いた演奏スタイル。それは、ちょっと聴いた限りではとても上手には聴こえず、すぐ真似ができそうに思ってしまう。しかし、なぜか全く真似できない。そんなわけで、過去から現代に至るまで、ヘイデンはどの時代の流行にも属さず、誰にも真似できない唯一無二の音を奏で続けたベーシストなのである。

 はい、わかりました。個性的なミュージシャンなんですね。それならおいらのようにコアなファンがいてもなんの珍しくもない話でしょう。とさらに半分の人が離脱したはずだ。しかし、ここからがおいらが師と崇める最大の理由である。チャーリー・ヘイデンの音は底なしに温かく優しい。聴いている人を包み込んでくれる。心が寂しい時に聴けば慰めてくれ、疲れた時ならゆりかごに揺られているように心地よい気持ちになる。たとえ今どんな辛い状況にあったとしても、生きててよかったなと思わせてくれる。そして何より、他人への攻撃的な気持ち、怒り、恨み、憎しみが薄れていくのだ。

 そうした気持ちになれるのは、彼の演奏がまさにそうだからである。ジャズの世界では少なからず共演者と競い合う演奏をしたりする。ジャズのジャムセッションで即興演奏を繰り広げることを、競演と表現したりもする。自分の演奏技術、アドリブ演奏を共演者や聴衆に誇示するのだ。しかし、チャーリー・ヘイデンの演奏にはそうした競争心が全く感じないのである。それどころか、他の人がどんな演奏をしようが、全くお構い無し。常に自分のペースと自分のスタイルの演奏を黙々と引き続けるのだ。多分世界が終わろうとする瞬間になっても、彼は自分の演奏スタイルを変えないだろう。

 なんだ、自己中な演奏家かあ、と幻滅した人もいるかもしれない。これで残りの半分の人もいなくなったかな。でも違うよ。チャーリー・ヘイデンは決して自己中じゃない。本当は他人と演奏できる幸せに深く浸っているのではないかとおいらは感じる。言い換えれば共演者への愛情を強く感じる演奏なのである。マイペースに聞こえる演奏は、相手に心を許し、自分のありのままの姿を相手にさらけ出している証なのだ。そうしたヘイデンの気持ちが共演者にも伝わるのか、どの共演者も普段の緊張に満ちたジャズ演奏では決して見せないとてもリラックスした演奏をしている。学生の頃のおいらは、素直に相手に愛情を示すなんて恥ずかしくできなかった。あなたのことが好きです。とても大切に思ってます。そんなことは言葉でも演奏でもとても表現できなかった。だから、ヘイデンの音を真似できなかったのだ。

 今のおいらならできるだろうか。いや、できない。それは恥ずかしさも少しあるが、自分自身の方が他人の愛情を欲してしまっているためだ。うわ、愛に飢えたキモいおっさんじゃないか。これでさらに残りの読者のほとんども興味を失っただろう。ほら、読者が半分の半分の半分の半分の半分に減り、最後に残ったわずかな人も失い、結局99%の人が興味をなくす話だったでしょう。ごめんなさい。チャーリー。あなたの良さをうまくお伝えできなくて。

 でも、最後まで残ってくれた1%の方のために、チャーリー・ヘイデンのとっておきアルバムを何枚か紹介して終わりにしよう。

 

ミズーリの空高く』チャーリーヘイデン&パッとメセニー

しみる。ともかくしみる曲の連続。これを聴いて一日中泣いた友達がいた。

 

ノクターンゴンサロ・ルバルカバチャーリー・ヘイデン

じとっとした気だるい暑い夏の夜にぴったりの作品。一晩中ゆっくりと酒を嗜みたくなるよ。

 

『Jasmime』キース・ジャレットチャーリー・ヘイデン

ヘイデン晩年の作品。長い長い音楽家の人生をキースとチャーリーがしみじみと語り合っているような演奏。楽しいことも辛いことも全部いい思い出。

 

『Long Ago And Far Away』チャーリー・ヘイデンブラッド・メルドー

同じくヘイデン最晩年の作品。ブラッドメルドーのとげとげしさ冷たさが一切取り除かれた、ゆったりとたゆたう演奏。特に3曲目のワルツは、まるでコロナの混沌が終息し世界中に平和が戻った後、あの時代を懐かしむような気分にさせてくれる。

心の師

おいらには、心の師と仰ぐ人物が二人いる。偶然にも二人ともチャーリーという名の外国人だ。今回はその二人の師匠についてお話ししたい。

 一人は、かの有名な喜劇王チャーリー・チャップリン。彼の存在を知ったのは、おいらが保育園の年長の頃だった。その頃のおいらは体調が不安定で、度々保育園を休んでいた。しかも一度休むと数日から一週間近く休むことも稀ではなかった。両親は共働きだったから、日中は一人で留守番してテレビの前に座椅子で陣取り、テレビ漬けの日々を過ごしていた。そして、その時よく観たのが父がVHSのビデオテープに録画したチャップリンの映画だった。

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 チャップリンの素晴らしさは、今更おいらがあれこれと説明するまでもない。独特のユーモアと計算され尽くした芸。それは、先日亡くなった志村けんドリフターズに通じるものがある。というよりドリフターズは、チャップリンの芸を徹底的に学んだのだろう。そして決して他人を見下すことも自分自身を卑下することもない底知れぬ人間愛。彼の映画を見終えた後は、面白かったという印象以上に不思議な幸福感に包まれるのであった。

 おいらがチャップリンを心の師と仰ぐのは、劇中での彼の何気ない一つ一つの仕草にある。劇中の彼の役は、大概どん底に貧しく、ボロボロの服を着て、今日食べるものにも困っている人物である。だから、度々人の食べ物をこっそりくすねたり、無賃乗車を試みたり、インチキな商売をやったりもする。それなのに、彼は人間としての尊厳を決して忘れていないのだ。たとえどんなにみすぼらしい格好でも、常に紳士的に振る舞うのである。転んで服に汚れがつけばはたき落し、人に挨拶するときは毎回帽子を脱ぎ、食事の前には感謝の祈りを捧げ、脱いだ帽子や杖や服はほったらかしにせずちゃんと片付ける。不幸な人をほっとけず、女性、子供、動物には深い愛情を注ぎ、時に身を呈して守ろうとする。こうした紳士的振る舞いは、決して自分をよく見せようとしているためではない。全てその根底にあるのは、他人に対する敬意と愛情なのだ。

 おいらは幼い心ながらにその清らかさ、美しさに映画を見るたびに新鮮な感動を味わっていた。だから、病気で休んだときに思う存分チャップリンの映画を観れるのがこの上なく楽しみだった。意図的に仮病をしたことはないが、もしかするとチャップリン観たさに無意識に体調が悪くなっていた時もあるかもしれない。そんなわけで、作品によっては100回くらい繰り返し観たものもあるだろう。それでも全く飽きなかった。

 チャップリンの作品の中でおいらのベストを挙げるとすれば『サーカス』であろう。チャップリンはひょんなことからサーカス団の団長に声をかけられ、ピエロとして入団する。その入団テストの時に、団長から「何かおふざけをやってみろ」と言われる。しかし、彼はおふざけというものが全然わからない。なぜなら彼は常に真面目に真剣に生きているからだ。だから、見よう見まねでおふざけっぽいことをやってみるが、それが全く面白くなく団長を激怒させてしまう。でも彼が真に面白くなるのは真剣に生きている時である。真面目に何かをやろうとすればするほど、彼は失敗しはちゃめちゃなことが起きてしまう。その姿は、時に人々に見下され呆れられ怒られもするが、彼はその生き方を貫く。どうして生きることにそんなに真剣になれるのだろう。人は誰しも面倒くさくなったり、手を抜いたり、諦めたり、疲れたりする時があるだろうに。そんなチャップリンの姿を見て育ったからだろうか。おいらは自分が病気であることに一度も不幸を感じたことがない。たとえそれが他人から見たら哀れな姿に見えようと、おいらはこの体で生きていくことになんの迷いもないのだ。

 サーカスの結末はある意味悲劇に終わる。同じ団員の美しくも悲しみにくれる女性に、密かな恋心を抱くチャップリン。彼は劇中ただひたすら彼女を励まし続けるが、結局彼女はイケメンのスターと結ばれてしまう。彼の愛情は報われることなく、最後は次の公演地に向かうサーカス団と別れ、一人荒野に佇みやがて行くあてもなく歩いて行く姿で終わる。その後ろ姿には寂しさを胸に抱えながらも明日に向かって進もうとする強い意志を感じる。その姿は、おいらが生涯目標とする姿となった。

 図らずも、その目標は20代に散々達成する。おいらはなんども恋をし、そして振られ続けた。あるときは、男性、女性双方の相談役になり二人の恋を応援し、あるときは振られた後も恋心を引きづりながら友人として接した。そしてどうしても心が張り裂けそうになったときは、チャップリンを思い出して笑顔を取り戻し、前を向くことができた。

 

 長くなってしまったので、もう一人のチャーリーの話はまた今度。

死までの近さ

志村けんコロナウイルス肺炎による急死によって、死が他人事ではなく急激に身近に感じた人も多いだろう。自分のよく知っている人、好きな人、身近な人が亡くなってしまうということが現実に起きたのだ。もしかすると、もっと身近な人あるいは自分自身にも、そのリスクがあるかもしれない。そんな不安と悲しみが混ざりあって、人それぞれ様々な感情が沸き起こっている。ある人は深い哀しみに落ち、ある人は怒りに転化し、またある人は故人に感謝し、そしてある人は大切な人を守りぬく決意を新たにする。感情は違えど、どれも他人を想うという気持ちは同じである。それだけ、彼は人々に愛され、また彼自身も人を想う人だったのだなと感じ、不謹慎かもしれないが感謝のような嬉しさのような、そして憧れの感情が出てしまった。これからも人々の心の中でおふざけをして笑わせてくれることを願っている。

 ところで、死が他人事でなく身近に感じるという気持ちは、先天性心疾患患者とその家族にとっては、今回始まったことではなく、常に頭の片隅に漂っている。手術をしたり容態が悪くなれば、片隅どころか頭全体を埋め尽くし、溢れ出さんばかりになりもする。おいらはこの感覚を、長年の経験と修行から、より具体的な数値によって客観的に感じられるようになった。例えば、もし死と生の間を0から10で表すとすれば、普段いるところは3、将来的な回復や改善が見込まれるときは4や5になる。しかし一方で、体調がじわじわ悪化しているときは2に足を踏み入れている。先日心室細動が起こったときは、1を切っているように感じられた。だから、思わず「死ぬの、死ぬの」と叫びながら看護師さんに尋ねてしまった。

 おそらく、若く健康な人であれば、8か9、すごい人なら10のフロアにいると感じているだろう。おいらは8から10のフロアに立ったことがないので、そこがどんな世界なのかは想像もつかないが、その世界にいる人にとっては死すなわち0はあまりにも遠い。だから死を身近に感じることは極めて難しくて当然なのだ。そこはおどろおどろしい闇の世界であり、無が支配しているのか、それとも恐ろしい鬼たちがのさばっているのかはわからないが、恐怖と絶望の世界に見える。

 おいらも0の世界がどんな所かはもちろんわからない。でも、なぜか恐怖と絶望の世界には思えないのだ。うまく表現ができないが、おいらという生き方が終わったんだなと思える世界に感じる。そこには、後悔や無念や良いや悪いといった人生の評価や感想はなく、終わりというたった一回の出来事をじっくりと味わう世界。ある意味で命の究極の答えがわかる世界なのではないだろうかとも思える。だから、楽しみとは言わないが、命あるものの宿命としていつでも受け入れる覚悟はできたつもりである。

 最後にもう一つ不謹慎なことを述べて、志村けんへのお別れの言葉にしたい。おいらも先天性心疾患とともに40年以上生きてきて、最後はあっさりコロナで死んだら冗談じゃないと思いもする。え、そこ?ちょっちょっと勘弁してよ。今までの苦労はなんだったの。ダメダメもう一回やり直し。と言いたくなる。でも、おいらの人生は、先の予想がつかない究極の場面の連続だった。だから、コロナという全く予想もしていなかった死に方もその連続線上にあるかもしれないのだ(*1)。志村けんの死は、人生は予定調和でなく、だからこそ面白いのだと教えてくれるものであった。おいらも心臓が原因で死ぬなんて予定調和である必要もないのだ。あー、でもドリフの笑いは結構予定調和だけどなぜか面白いなあ。

 

*1 予想がつかない連続線上とは、ランダムウォークという確率論をイメージしたものである。ランダムウォークの動きの中では、どんなに中心付近をうろうろ歩いていても、あるとき突然に0に落ちてしまう事が起こりうる。

スーパー患者

世間では、神の手と呼ばれる圧倒的な医療技術を持ち、不可能と思われる手術を次々と成功させていく医者を、スーパードクターと呼んで崇拝している。スーパードクターの元には、世界中から難病を患った多くの患者がすがる思いで訪ねてくる。それだけに手術が成功し絶望的だった病気が治ると、奇跡を起こした医者としてますます神格化されていく。そんなスーパードクターは、病院側にとっても大きな魅力がある。スーパードクターがいる病院はそれだけでブランド価値が跳ね上がるので、本当かどうかはわからないが、病院間でスーパードクターの争奪戦にすら発展しかねないのだ。

 スーパードクターがいるのなら、その裏面の存在となるスーパー患者がいてもいいだろう。スーパー患者は、神の体と呼ばれる圧倒的な治癒力と忍耐力を持ち、治療不可能と思われた危機的状態から何度も生還し回復する。どんなに辛い治療や検査も耐えに耐え、並の人間なら諦めてしまう状況下でも最後まで生にしがみつく。医師に言われた決まり事を厳格に守る。薬は欠かさず飲み、どんなに食欲がなかろうとどんなにまずい病院食だろうと、残さずきっちりと食べる。体力が落ちないよう自主的にリハビリに励み、治療効果が最大限に発揮されるよう、医者や看護師に全面的に協力する。そんなスーパー患者は、病院側にとっても大きな魅力があるだろう。スーパー患者を治療した病院は、極めて難しい症例を治した実績により評判が跳ね上がるので、本当かどうかはわからないが、病院間でスーパー患者の争奪戦にすら発展しかねないのだ。

 

(ミュージックスタート♪)  

 そんなスーパー患者を知ってるか?  

  えーと  

 誰か忘れてねえか 

  えーと

 大事なやつを忘れてねえか

  だれかなあ

 このおいらがそうなのよ

  えー

 このおいらこそ 立志伝中のスーパー患者

  そんなバカな

 フン このおいらは 子供の頃から苦労した

  へえー

 ちょっとのことで息切れし 度々病院出かけたぜ

 細くて見えない血管に 何度も注射を刺されたぜ

 チックチックと刺されたぜ

  子供なのにかわいそう

 なに、かわいそう?フン

 痛みを承知で検査受け 苦しみ承知で手術行く

 この度胸あってこそ スーパー患者になれたんだ

  頑張ったね

 フン 人に頭を撫でられて

 なぐさめられても病気は勝てねえ

 そうだ えー みんなそうじゃねえか

 痛みを承知で検査受け 苦しみ承知で手術行く

 この度胸あってこそ スーパー患者になれたんだ

 このおいら様は 立志伝中のスーパー患者

 

  *原曲:『立志伝中の人物』,ひょっこりひょうたん島

 

ファルコンに乗りたい

虚無感に満ちた長い3連休がようやく終わろうとしている。最初にお断りしておくと、以下に書くことは、おいらのしょうもない嘆きや愚痴であり、気持ちの整理ができないまま連休が終わろうとしているため、自分自身の記録のために書いておくことにしたものである。とても、人様に読んでいただくようなものではないのだが、おいらも煩悩に満ちた人間。誰かにわかってもらいたいという甘えがあるのだ。

 虚無感に満たされたきっかけは、息子との関係にある。連休中おいらは、ずっと息子の行動にイライラしてしまっていた。おいらの住む南の島では先週から一斉休校が解除され、今時の男子中学生には珍しく学校が大好きな息子は、嬉々として登校していった。一斉休校中毎日一人で留守番する息子は、おいらも胸が苦しくなるほど寂しそうにしていた。それだけに、ようやく学校が始まり生き生きと学校に通う息子の姿は、中学生男子であることを差し引いても、愛おしく可愛らしく輝いて見えた。

 ところが、3連休に入った途端に息子は怠惰な生活を送り始めた。彼の仕事である皿洗いなどの家事をいつまでたってもやらず、夜は遅くまでスマホをしたりテレビを見たりして夜更かしし、当然朝は起きられず、朝起きたらまたすぐスマホやテレビに向かった。おいらが天気もいいし出かけようかと提案しても気乗りをしない返事をして重い腰をあげることはなく、結局毎日何時間も友達とゲーム三昧だった。そのゲームも今は友達の家に行ってみんなでワイワイやるのではなく、それぞれが自宅でネットに繋げ、ゲームの世界の中で出会うようだった。息子の1日の大半は、スマホ、テレビ、ゲームに注がれ、今彼の目の前にある現実の世界からどんどん心が離れていくように見えた。あなたの目の前にはおいらがいるよ。美味しいご飯もあるよ。外は暖かく春の陽気に包まれているよ。友達も実物がちゃんといるよ。それらのどれも彼の心には届かなかった。つい先日生き生きとした姿を見せた息子がもうどこにも見当たらず、虚構の世界に迷い込んでしまっていた。

 それならば、おいらが叱ってゲームやスマホやテレビを辞めさせればよいのだろう。もちろんそうするときもあるが、それはそれでおいら自身が辛くなってくるのだった。それに、ただ強制的にゲームなどを制限したところで、息子を現実に引き戻せなそうに思えた。息子にとってはゲームの中の世界の方が刺激的で面白い現実なのかもしれないのだ。息子を引き戻すには、ゲームの世界より面白い現実を見せるしかない。でもそれはおいらが見せることではなく、息子自身で見つけることのようにも思える。今おいらができることは、現実の世界で淡々と確実に生きている姿を見せることだろう。

 そういうおいらも、虚構の世界にずるずると引きずり込まれつつあった。2月から、心臓くんがつぶやくという怪しい設定でツイッターを始めてみた。ブログ記事で書くには短すぎる心臓エピソードを軽くつぶやくという目的と、同じ病気を持つ人々の言葉を聞きたい、あわよくば交流したいという思いがあった。しかしいざ始めると、ツイッターに自分自身が縛られていることに気づき始めた。本当は何も言いたいことがないのに、無理につぶやいている気がする。他の人のツイートがつい気になってしまい、何度も見たり考えたりしまう。それは「同じ病気を持つ人々の言葉を聞きたい」という目的には適っているが、一方で自分自身をどこか見失っている気がするのだ。そしてまた、交流したいという目的もほとんど叶えられていなかった。フォロワー、いいね、リツイートといった悪魔の数字に翻弄され、むしろ自分の孤独感がより明確に強調されていくように思えた(*1)。

 息子の目にも映らず、広大なネットの世界の中でもほとんど誰にも気づかれない。虚構の世界に迷い込んだのはおいらなのだ。おいら自身が希望や目的や自分の居場所を見失っていたのだ。連休の最後は現実の世界に戻ろうと、ハイゼントラを打ちながら小一時間息子と話をした。生きるための点滴と生きるための会話。どちらも明日へとつながるささやかな希望だ。生きる希望を感じた時、現実は蘇った。

 

*1 twitterを否定しているわけでなく、おいら自身がうまく使えていないだけなので、twitterを利用し楽しんでいる方はどうか気を悪くしないでほしい。

クリームシチューの進化学

我が家では、中1の息子の定番料理となったクリームシチュー。前回作ってから約2ヶ月が経ち、再び作ってもらった。息子のクリームシチューが登場するのは、大体おいらの疲れが溜まっていて寒い日である。この数日もその条件に当てはまり、南の島にしては最高気温が20度を切って肌寒く、おいらは寒さと疲れであまり体が動かなくなっていた。作るときは、カレー同様に土鍋いっぱいに作り、作った当日と翌日の晩御飯まで持つようにする。おかげでおいらは、丸二日間はゆっくり体を休ませることができる。我が家にとってクリームシチューは、息子の定番料理というだけでなく、親に休息を与えるご褒美のような食べ物なのだ。

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 ところで、従来のクリームシチューのイメージは、冬の寒い日に家族揃って食べ、体も心もほっこりと温まる代表的な家庭料理である。あまりに家庭料理のイメージが強すぎるのか、外食で食べることはほとんどない。実際には、日持ちしない、作りたてが美味しい、煮込みすぎると色合いが悪くなる、といった外食には向かない技術的な要因もあるようだ。では家でならそれなりに食べるかというと、やはり上記のイメージが強すぎるのか、よほどクリームシチュー好きな人でなければ、一人暮らしの人が作って食べたり、暑い夏の日に作ることはまれそうだ。おいらも一人暮らしをしていた時は、カレーは度々作ったが、シチューを作った記憶がない。

 生物は、あまりに限定された環境に適応した性質を進化させると、その性質が仇となってその生物種の絶滅リスクを高めてしまう場合がある。例えば、ある特定の食べ物しか食べない種は、その食べ物がなくなると絶滅しかねない。反対に色々な種類の食べ物を食べている種は、食べ物の一つがなくなっても他を食べれば良いので絶滅しにくい(*1)。家族団欒のイメージがどっぷりと染み込んだクリームシチューもまた、その限定されたイメージゆえに現在絶滅の危機に瀕している可能性がある。

 現代社会を悩ます深刻な気候変動のように、家庭環境もこの数十年で大きく変動した。現在の家庭は、核家族化が進み、両親は共働きで、兄弟姉妹も少なく、磯野家のように家族が揃って食卓を囲む機会は激減している。そのような家庭では、片親が子供と食事をするか、家族全員がバラバラの時間に食事をとることすら珍しくないであろう。そうした食環境の中で、家族団欒のスペシャリストとして適応したクリームシチューに、もはや出番はない。クリームシチューは、日本の食卓からひっそりと失われていく運命が迫っているのだ。

 だが、全国1000万人のクリームシチュー好きの皆さん。安心してほしい。おいらと息子はクリームシチューに新しい活路を見出したのだ。そう、最初に書いたように子供の定番料理にすることだ。それにより、クリームシチューは家族団欒のイメージから脱却し、親の休息という現代社会で最も求められている状況に適応できるのだ。子供が作るなら、あえてクリームシチューでなくても、似たようなカレーでもいいんじゃないかと思った方もいるだろう。だがカレーはクリームシチューには絶対に勝てない。カレーは国民食としてあまりに日本社会に浸透した結果、調理法やルーの味、見た目、風味などが多種多様に分化した。もはや子供でも作れる気軽な料理ではなくなったのだ。それに対し、クリームシチューは材料もルーも調理法もほとんど変化がない。玉ねぎを飴色になるまで炒めたり、肉の種類を変えたり、辛さを変えたり、スパイスを加えたりといった手間や工夫も必要ない。簡単に大量に作れて、そしてたまに食べるとすごく美味しい。この絶妙なバランスが、子供の料理として完璧にフィットするのである(*2)。

 仕事を終えて家に疲れて帰ってきたとき、中学生の息子がクリームシチューを作って待っていてくれた時の幸福感は、筆舌に尽くしがたい。クリームシチューは、疲弊する現代の日本社会において、束の間だがかけがえのない安らぎを与えてくれる料理として進化する可能性を秘めているのだ。

 

*1 実際には餌資源が特殊化している種は、他の種が利用できないような餌資源(毒のあるものなど)を利用している場合が多く、その場合他種との餌をめぐる競争が起こらないので、非常に有利にもなる。

*2 さらに言えば、クリームシチューは外食で食べないため、プロがつくる味と比較することがなく、多少下手に作ったとしても、美味しく感じられるのだ。

多様性という試練

人類は、これまで生物が生み出す多様性に散々悩まされてきた。あえて強引に言ってしまうならば、人類史上に起きた様々な問題は、いずれも多様性が発端になっていると言えなくもない。例えば、おいら達が抱えている先天性心疾患という病気。もし、全ての人間が皆正常な心臓を持って生まれてきていたならば、人類は先天性心疾患に悩むことはなかった。でも現実はそうではなく、およそ1%の割合で先天性心疾患を持つ子供が生まれ続けている。そして、先天性心疾患にも多種多様な種類があり、それゆえに心疾患の治療を複雑かつ難しくしている。

 最近はだいぶ認知されてきたLGBTも性の嗜好に関わる多様性の一つである。もし、全ての男性が女性を好み、全ての女性が男性を好んだなら、LGBTという言葉すら生まれず、そこから生じる様々な差別や偏見などの問題は生じなかったであろう。しかし、それも現実はそうならなかった。そもそも性別自体が生物が生み出した多様性の一つであり、性別によってもやはり差別等の問題が生じている。

 性や病気に関わることだけではない。人種、文化、性格、体型、知能など人間にみられるあらゆる多様性には、何らかの問題が発生している。むしろ、多様性のない特徴はなく、多様性があるがゆえにその差を巡って人々が争っている。どうして、全ての人が均一に同じにならないのだろうか。そこには生物に課せられた宿命がある。

 生物は、生物進化の過程で多様性が増大する方向に突き進んできた。生命史上、生物種の大量絶滅によって一時的に多様性が減少することは度々あったものの、絶滅の後にはリバウンドするかのように、爆発的に生物の多様化が進んだ。なぜ生物の多様性は増大するのかは、生物学者にとって永遠の謎と言える深いテーマであるが、生物が地球上で生き残るために多様性が不可欠であることは疑う余地はないだろう。今人類を悩ませている新型コロナウイルスのような病原体に対しても、多様性がなければ克服できない。病原体は、宿主の個体を時に死に至らしめるが、やがて宿主の種の中から病原体抵抗性の遺伝子を持った個体が生まれてくる。もしそうした変異個体が現れなければ、宿主の種は絶滅するリスクがある(*1)。

 生物が生き残る上で多様性が必要不可欠であるならば、なぜ人類はその多様性に時に振り回され、争うのだろうか。本当は、人類に見られるあらゆる多様性も、人類が生き残る上で不可欠なものなのかもしれないのだ。先天性心疾患もその一つなのだろうか。誤解のないように言うならば、先天性心疾患は、人類を含む哺乳類が極めて機能性の高い2心房2心室性の心臓を獲得したがゆえの宿命だったのではないだろうか(*2)。もし複雑な構造の心臓を持たなければ、魚や爬虫類と同様にはるかに死亡率が高く、生きられる環境が限られ、そして絶滅するリスクも高かったはずだ。大量の血液を必要とする脳を発達することもできず、結果科学も医学も生まれなかった。

 とはいえ、先天性心疾患を肯定的に捉えることは極めて難しい。実際それが原因で亡くなられる人も多く、おいら自身散々苦しんで辛い経験をしてきた。でも多様性の負の面だけを見ていては、人類が抱える問題や悩みはなくならない。多様性には正と負の両面があり、正の面をどう生かすかが人類に課せられた試練なのだと思う。だからおいらは先天性心疾患を習熟したフォンタンマスターを目指すのだ。

 

*1 現実には、病気抵抗性を持つ個体が誕生するのを待っているわけではなく、すでにその種の中に膨大な遺伝的多様性が蓄積されており、その中に抵抗性を持つ個体が存在している。あるいは、免疫細胞自体が多様な抗原に対抗できるような性質を持っている。

 新型コロナウイルスに対しては、治療薬やワクチン開発(ウイルスタンパクをコードするDNA配列を作成し、その配列からウイルス抗原を大量に生産する)の研究が現在進められている。

*2 2心房2心室性の心臓でなぜ先天性心疾患が生じるのかはわからないが、構造が複雑になる程、発生過程での異常が起こりやすい可能性がある。またこの説明では、先天性心疾患は心臓の複雑化に伴う副産物でできた多様性であり、生物が地球上で生き残るために不可欠な多様性には当てはまらなくなる。実際そうなのかもしれないが、おいらは、全ての多様性には意義があるという前提に立って先天性心疾患を理解したいのだ。