ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

男はつらいよーポテトサラダ記念日

7月に入り、気持ちが落ち込んでいる。以前のように日々の暮らしの中に喜びをあまり感じることができず、毎日時間が過ぎるのを待つように過ごしてしまっている。もしかしたら鬱なのだろうかと、ネット上のうつ診断チェックを片っ端からやってみると、予想通り全部鬱の兆候ありだった。中には重度判定になったものもあった。そんな気分だから、自分自身にも他人にも優しい気持ちになれず、ついイライラしてしまう。今まではそんなこと思ったこともなかったのに、他人の幸せをうらやむになった。これはまずい、ということで自分が悩んでいる問題点を整理してみることにした。

 

仕事:やめたいけど、やめたらもっと収入が悪くかつ体にきつい仕事しかない。

研究職の夢:ほぼ完全に可能性がなくなった。

家庭:各個人が個別に行動するようになり、毎週末孤独。

外食:食べられるものがほとんどない。特に最近は、下手に外で食べると著しく体を壊す。不整脈もでる。

将来の夢:なにもない。できれば新天地で暮らしてみたいが、仕事、病院、家族の生活、どれも一から築く体力がない。

病気:年々悪くなるばかり。毎晩苦しくて夜中に起きてそのあと寝られない。

お金:4月から給料もかなり下がり、毎月の生活費も若干赤字。

趣味の釣り:南の島は意外と全然釣れない。釣れても美味しくない熱帯魚。しかも夏場激暑。最近は体力も厳しい。

環境:温泉、涼しい森や川、高原がない。海は素晴らしいが一人では危なくて泳げない。

 

 どれも些細でなんとでもなりそうなことであり、なにより他力本願である。何か楽しめることや喜べることを見つけて、自分自身で人生を充実させるしかないのだ。それはそうなのだが一方で、辛いことや制限が多すぎる中で、無理やり楽しみを見つけて生きることに虚しさも感じてしまう。本来は、そんな無理に楽しもうとしなくても、自然と喜びや幸せを感じられるものじゃないのだろうか。

 そんなネガティブ思考に取り憑かれたときに、ネットでポテサラ論争なるものが起きた。これはツイッターでの以下のツイートから端を発したものである。

”「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」の声に驚いて振り向くと、惣菜コーナーで高齢の男性と、幼児連れの女性。男性はサッサと立ち去ったけど、女性は惣菜パックを手にして俯いたまま。私は咄嗟に娘を連れて、女性の目の前でポテトサラダ買った。2パックも買った。大丈夫ですよと念じながら”   

 この男性の言動に対し、惣菜を買ってはいけないのか、ポテサラは手間がかかる料理だ、と避難が集中したのだ。おいらも最初、こうした男性の上から目線の失礼な態度は嫌だなと思ったのだが、一方でこの男性は今のおいらと同じような心境だったのではないだろうかと思い寂しくもなった。

 この男性がそうだったかはわからないが、高齢の男性の中には、仕事を退職し、日々やることがなく退屈な日々を過ごしている方は少なからずいるだろう。ショッピングモールで大型テレビの前にパイプ椅子が並べられたスペースがあると、多数のおじさんたちが座っているのをよく見かける。家族や友人など一緒に遊ぶ相手もおらず、誰かに何か頼まれたり必要とされることもない。ただただ毎日が空虚に過ぎていく。そうした状況を自分でもなんとか変えたいと思いつつ、でもどうしていいかわからず、それが焦りとなって苛立ってしまう。そんな感情の中で、子育てや日々の生活で忙しくも幸せそうな女性が羨ましくそしてどこか腹立たしく感じたのかもしれない。もしこの男性が日々の生活が充実して幸せに満ちていたならば、あの様な言動を取っていただろうか、とおいらは思ったのだった。

 おいらもネガティブな感情にいつまでも振り回されていてはいけない。このままでは、ポテサラおじさんのようにいつか誰かを傷つけてしまうだろう。もうすでに傷つけているかもしれない。だから、上であげた問題を一つずつ解決していこう。そんなわけで今日も一人ショッピングモールに行き、来週の入院に備えて超気持ち良さそうな寝間着を買い、惣菜の寿司を満喫した。

 

 余談だが、死ぬほど暇なおいらはポテサラは全く手間に感じず、月に一度ほど自分好みのポテサラを大量に作っている。作るたびにより美味しくなるよう改良を重ねるので、むしろ手間がかかる方が楽しいぐらいである。惣菜のポテサラは塩分、脂肪分が多いため、おいらはマヨネーズ控えめでその分プレーンヨーグルトを加えて、滑らかさとさっぱりとした味わいに仕上げている。ポテサラおじさんも、手間がかかるのを実感しろ、というわけでなく、ポテサラ作りは楽しいので作ってみたらいいのになと思う。