ある生物学者の不可思議な心臓

ある生物学者の不可思議な心臓

先天性心疾患をもつ生物学者が命について考える。

穿刺で戦死

今年の上半期は、ここ3年ほどの中でも特に心臓の調子が悪い半年となってしまった。1月にはカテーテル検査中に心室細動を起こし、死ぬかと思うほどの苦しみを味わった。その後も心房細動や心房粗動が月に2、3回おき、その度に電気ショックを受けた。さらにペースメーカーが不調になり、度々ペーシング不全になった。現在はセンシング不全も起きている。不整脈やPM機能不全になるたびに、倦怠感、息苦しさ、疲れやすさ、心不全等の症状が現れ、日常生活を送るのさえ一苦労だった。追い討ちをかけるように、不整脈アミオダロンの長期服用の副作用で甲状腺機能低下症になり、強烈な寒気と倦怠感に襲われたりもした。このままでは心臓が確実に弱っていくのは明らかであり、不整脈とペースメーカーの治療が喫緊の課題になった。

 その第一弾として、今月末にまずカテーテルアブレーションによる不整脈治療を受けることが決まった。しかし、心外導管型フォンタンの患者にとって、通常のカテーテル手法は使えないという大きな問題がある。なぜなら、カテーテルを心房に到達させるルートがないからだ。厳密には、大動脈から心室に入り、そこから強引にカテーテルの管を曲げて、心房に入る逆行性アプローチがある。しかしそのためには、何枚もの弁を通らなくてはならず、かつ心房までの経路が複雑に曲がっているため、極めて難しい方法となってしまいリスクも高い。その代わりとして編み出されたのが心外導管穿刺法という、それはそれでまた難易度の高い手技である。

 心外導管穿刺法とは、名前の通り心外導管からカテーテルを突き刺して、さらに右心房の壁も貫通させ、カテーテルを到達させようという方法である。そこには数々の困難が待ち受けている。まず、大腿静脈からカテーテルを入れ、心外導管まで到達させる。そして、カテーテルの先端からブロッケンブロー針と呼ばれる穿刺針を出し心外導管の壁に突き刺す。しかし、針が導管の壁を滑ってしまい、容易に刺さってくれないことも多い。その場合は、スネアと呼ばれる別のカテーテルで針を固定したり、針のついたカテーテルをより鋭角に曲げたり、それでもダメな場合は高周波エネルギー経中隔穿刺針と呼ばれる特殊な針で刺したりもする。

 しかし、問題はそれだけで終わらない。なんとか針を刺せてもカテーテル本体が太くて入らないことがある。その場合は、導管に開けた穴をバルーンで拡張させるといった一工夫が必要になる。この一連のプロセスを確実かつ安全に行うためには、事前にCT検査等により心臓や血管の構造を3次元的に十分把握しておく必要がある。また、穿刺の際には放射線透視・血管内エコー・経食道エコーのモノクロで不鮮明な画像を頼りに、間違いなく針を刺さなければならない。想像するだけで恐ろしく難しそうである。こうして、なんとかカテーテルを心房内に到達できたのちに、電気生理検査とアブレーションのプロセスに進むことができる。

 心外導管穿刺法が行われ始めたのは、まだ新しく2009年ごろからのようだ。その後実施例は限られてはいるものの、2018年ごろには一連の手法が確立して、より安全に行えるようになった。国内でも2012年から実施例が報告されている。

 今回は、心外導管穿刺法について自分の理解の整理と記録のために、医学書のように淡々と解説してしまった。きっと読んだ方は退屈だったに違いない。しかし、知識が整理できたおかげで、おいら自身は今度受けるアブレーションへの不安や恐怖心が少し和らいだ。でも本音はこうした知識はさして重要ではなく、目下心配なのは、このアブレーションを全身麻酔か無意識状態でやってもらえるかどうかである。過去4度アブレーションを受けたことがあり、2度は無意識下でやってもらえたが、2度は意識がはっきりあり激痛でトラウマになった。今度のアブレーションはこれまで以上に困難であることが予想され、もし意識があれば次こそ戦死するに違いない。だから事前説明の際には、無意識状態でやってもらえるようなんとしてでも懇願しようと思っている。

 

参考文献

平松健司. (2016). 成人先天性心疾患に対する外科治療成績と問題点. 京二赤医誌, 37, 2–6.

Laredo, M., Soulat, G., Ladouceur, M., & Zhao, A. (2018). Transconduit puncture without per-procedural echocardiography in nonfenestrated extracardiac Fontan using a simplified approach guided by electroanatomic mapping. Heart Rhythm, 15(4), 631–632.

Mori, H., Sumitomo, N., Muraji, S., Imamura, T., Iwashita, N., & Kobayashi, T. (2020). Successful Ablation of Atrial Tachycardia Originating from Inside the Single Atrium and Conduit After a Fontan Operation. International Heart Journal, 61, 174–177.

Uhm, J. S., Kim, N. K., Kim, T. H., Joung, B., Pak, H. N., & Lee, M. H. (2018). How to perform transconduit and transbaffle puncture in patients who have previously undergone the Fontan or Mustard operation. Heart Rhythm, 15(1), 145–150.

Correa, R., Sherwin, E. D., Kovach, J., Mah, D. Y., Alexander, M. E., Cecchin, F., … Abrams, D. J. (2015). Mechanism and Ablation of Arrhythmia Following Total Cavopulmonary Connection, 318–325.

Aoki, H., Nakamura, Y., Takeno, W., & Takemura, T. (2014). 心外導管を用いたFontan術後の頻脈性不整脈に対して経皮的心外導管穿刺でカテーテルアブレーションを行い成功した 4 例. 日本小児循環器学会雑誌, 30(5), 592–596.

どんな抗生物質や修行も効かないことがある

数週間前から虫歯の治療を始めた。正確には、初診は歯や歯茎の状態のチェックで、2回目、3回目は歯石や沈着汚れを掃除をしてもらい、治療が始まったのは4回目だった。先天性心疾患業界ではもやは常識となっているが(そもそもそんな業界があるかは置いておいて)、虫歯は先天性心疾患患者にとって極めて危険な存在である。それは、虫歯や歯周病といった口内の病気を持っていると、そこから細菌感染が起こり感染性心内膜炎という死亡率の高い症状が起こりうるからだ。

 とはいえ、虫歯の治療自体もリスクを伴う。特に抜歯など大量に出血する治療の場合には、そこから感染が起きかねない。だから出血を伴う治療をする前には、抗生物質を飲んで予防をすることが重要である。ところが、先天性心疾患患者は闇雲に抗生物質を使ってはいけないとおいらは教えられてきた。というのは、抗生物質は使い続けると効かなくなるという性質があるため、特定の種類の抗生物質は将来の手術用に使わずにとっておく必要があるからだった。だから、歯の治療をする際には、事前に心臓の主治医と相談し、どの抗生物質を使って良いかを確認した上で治療を受ける必要があった。おいらはその教えを忠実に守り、子供の頃に治療して以来歯科医院に行くのをずっと避けていた。

 今回の治療を始めるよりしばらく前、現在の心臓の主治医に歯の治療について尋ねたことがあった。すると、あっさり特に問題なくしても良いと言われてしまった。ただ、やはり親知らずを抜くなどの大量出血を伴う場合は、なるべく避けて欲しいとのことだった。それは感染症のリスクもあるが、ワーファリンを飲んでいるために止血が難しいためでもあるようだ。抗生物質に関しては特に手術用にとっておく種類があるというわけではないようだった。もうおいらが歯医者に行かなくていい正当な理由はなくなった。むしろ、心内膜炎などのリスクを考えれば、酷くなる前に積極的に行ったほうが良いのは明らかだ。そんなわけで、おいらは約30年ぶりにようやく重い腰をあげたのだった。

 歯の治療はともかく痛くて怖いというイメージがある。実際職場の人に話をすると、皆超痛いと口を揃えていった。でもこの数年間数々の激痛治療を耐え抜いてきたおいらには、並みの痛みでは屈せず、むしろどんだけ痛いのか期待すらしていた。まず初診の歯茎チェックでは、血が出たりズキッと痛かったりすると脅されたが、残念ながら全く痛みがなかった。2回目、3回目の歯の掃除でも、マッサージを受けているように気持ちよく眠りそうになった。やっぱり、予想通り超余裕だったな。こんなんで痛い痛いと弱音を吐いているようじゃ、お前らまだまだ修行が足りんのうと悦に入っていた。

 そして4回目、いよいよ本格的治療。前回までは主に歯科衛生士の方が担当してくれたが、治療は当然ながら医師がおこなった。その先生は歯の治療は皆とても怖がるということを心得ており、なるべく怖がらせないよう治療を始める前に、「麻酔を使った治療はしたことがありますか」と優しく聞いてきた。フッ。野暮なこと聞かないでくれよ。このおいらを誰だと思っているんだね。麻酔なんてここ数年打ちまくられてきたぜ。首や鼠蹊部や肋骨や胸骨の周りに麻酔するのに比べたら、全然怖くないぜ。と余裕をかまし、全然大丈夫ですと答えた。それでも医者は「ちょっとちくっとしますよ」ととても優しく声をかけ、麻酔薬もゆっくりと慎重に入れていった。やっぱり予想通りほとんど痛くなく余裕だった。

 だがしかし、おいらの強がりとは裏腹に、麻酔を打っている途中から顔面がぴくぴくと痙攣し始めたのだ。特に唇の痙攣が酷く、医師は麻酔をしながら時々唇を伸ばしたり抑えたりして止めようとしていた。いやこれは麻酔を打っているから神経がおかしくなって痙攣しているだけだ。決してビビったからではない。心ではそう思い続けた。でも実際は、麻酔を打たれている方とは反対側の遠い部分が最も痙攣し、そのうち手も震え心臓の拍動も早くなっていった。おそらく内心超ビビって極度に緊張していたのだろう。ようやく麻酔が終わり、うがいするよう言われると徐々に震えや痙攣が和らいでいった。

 ショボ。これまでの修行全く役立ってないじゃん。誰だよさっきまで悦に入って余裕かましてたやつ。心の中で自分で自分に思い切りつっこんでいた。実際は麻酔もその後のキュイーンと削られる治療もさほど痛みはなく、逆になおさら自分のショボさを際立ててしまった。結局どんなに痛い治療を経験していようと、慣れていないものには怖いのだ。

 今週もまた治療がある。もしまた削るような治療になりそうなら、なんとかそうしないで済む方法がないか相談し、場合よっては治療を保留しようかと今からドキドキしている。

父の休日

世間では今日は父の日で、家でご馳走を食べたり、家族からプレゼントや感謝の言葉をもらったり、といったお父さん方もいたかもしれない。しかし、おいらには全く無縁のごく普通の休日だった。父の日を意識したわけではないが、朝息子に今日はどこか出かけようかと誘ったが、いつも通りあっさり断られた。中学2年の息子にとって、休日に親と出かけるなんてダサくて面倒くさいだけなのだ。じゃあ、妻と二人で出かけるかというと、ここ数年二人で出かけたことなどなく、今更出かけたところで困惑するだけだ。それに妻の方も、おいらと二人で出かけるなんて息子以上に嫌だろう。そんなわけで、息子が断った時点でおいら一人の休日が確定した。

 とりあえず、ようやく再開した近所の図書館に行くことにした。面白そうな本を探したり、論文書きを進めたかったからだ。でもその前に腹ごしらえしようと、まずは近所のショッピングモールに出かけた。コロナ自粛明けで普段以上に混んでいる。マスクをしようと持ってきた新品マスクを装着すると、1分と経たず紐が外れて使い物にならなくなった。でも、そんなこともあろうかともう一つ別の種類のマスクも用意しておいた。ところが、もう一つの方はサイズが合わず、無理やり耳に引っ掛けると、片方の耳が潰れそうになる程引っ張られた。さらに隙間がないから10分とたたずめちゃめちゃ息苦しくなり、結局マスクをつけるのは早々に諦めた。

 ショッピングモールの中は、いたるところに父の日を宣伝するポスターが貼られていた。父の日にプレゼントを、とか父の日に感謝の気持ちをといった文字がどこを見ても視界に入った。まあおいらには関係ないことだ、と特に悲しみも寂しさもわかず、むしろお祭りムードに楽しんですらいた。思えば、若い時も、クリスマスやらバレンタインデーやらもそんな感じだった。恋人と過ごすロマンチックな夜などおいらには無縁な話だった。

 モールでは食料を調達する前に、無印に行き夏場の喉を潤すための水出しルイボスティーを買った。マスカットのフレーバーがついた超女子力高いやつだ。用意周到なおいらは、家を出るときにステンレスボトルに氷と水を入れておき、水出しティーを買うとすぐにボトルの中に入れた。しばらく買いもしないのに眼鏡屋でメガネを何個か試着したりブランドの服を触ったりして、やはり女子力高めのウインドーショッピングを楽しんでいるうちに、ちょうどいい具合にボトル内が攪拌され、短時間で味が出ていた。カラカラに乾いた喉を氷でキンキンに冷やされた水が潤し、甘いマスカットの香りが鼻を抜けると、ぱあっと世界がマスカットの薄い黄緑色に輝いて見えた。

 さあ、次はお楽しみの食料調達だ。レストランとかで食べようかとも思ったが、まだ時間が早くスーパーの惣菜コーナーで何か買うことにした。父の日ということもあって、いつも以上に豪華な惣菜が並んでいる。どれも美味しそうでなかなか選べずにいたが、ようやくその中でひときわそそられる一品が見つかった。デカ盛りのカツ丼である。思えば、6年前に蛋白漏出性胃腸症を発症して以来、胃腸に負担のかかる脂肪分の多い豚カツやカツ丼は全く食べていなかった。カツ丼弁当を手に持つと、ずしりと重い。こんなの食べたら間違いなく蛋白漏出性胃腸症が悪化するだろう。うーでもたべたい。いやだめだ。どうしよう、どうしようと惣菜コーナーで立ち尽くしていると、悪魔の誘惑が聞こえてきた。

「今日は父の日だよ。特別な日じゃないか。どうせ誰もプレゼントくれないんだろう。だったら自分で自分にご褒美あげちゃおうぜ。」

 おいらが、そうだよね、久しぶりにいいよね。特別だよね。とあと一歩で誘惑に負けそうになったとき、急に嫌な悪寒がした。スーパーの強烈な冷房と、キンキンに冷やされたマスカットルイボスティーを飲んだために、おいらの体は外と内からガンガンに冷やされていたのだ。一旦そうなると寒気で気持ちが悪くなり、カツ丼どころか何も食べれなそうな気分になってきた。結局カツ丼は諦め、もう少しボリューム控えめの天津飯弁当を買った。その後、ぶるぶる震えながらサウナ状態のように蒸し暑い車の中で、天津飯弁当を食べると、ようやく悪寒が収まった。

 だいぶ長くなってしまったのでここからは短く話そう。腹が収まり図書館に行くと、また冷房で寒気が出てきてしまった。早々に図書館を出て隣の自習室に行くとここは温度がちょうどいい。しかも、ソーシャルディスタンス確保のために一人の机スペースがとても広く、フリーWiFiも飛んでいてすごく快適な空間だった。おかげで予想以上に論文書きがはかどった。

 気分が良くなったので、帰りにコンビニでアイスでも買っちゃおうよ、とまた悪魔の誘惑に誘われたが、午前中の寒気を思い出してそこは留まった。代わりに、以前から気になっていたステンレスボトルの内側についた茶渋を取るため、酸素系漂白剤をドラッグストアで買って帰った。早速家でボトルを漂白剤につけてしばらく置くと、新品のように綺麗になり、世界がステンレスの銀色に輝いて見えた。その後、洗濯物をたたみ夕飯の準備をしていると、ようやく家に家族が揃い皆で夕食を食べた。今日の夕飯はひき肉400gを使った肉たっぷりミートソースにした。昼間のカツ丼を控えたのがすっ飛ぶくらい脂ギトギトだった。

 くだらない話でだいぶ長くなってしまったが、このおいらの休日を孤独で寒くて好きなものも食べられずマスクも壊れる虚しい一日と見るか、黄緑色や銀色に輝きやりたいことに集中でき女子力アップの素敵な一日と見るかは、あなたの自由である。

20gに託された命

ペースメーカー(PM)が突然止まったら、おいらは一体どうなるのか。それは、5年前にPMを埋め込んだ時から、怖いもの見たさのような好奇心として、おいらの頭の片隅にずっと潜んでいた。図らずもその好奇心は満たされることになった。この1ヶ月半ほど、おいらを苦しめていた、だるさ、疲れやすさ、息苦しさ、心不全、極度の寒気、みぞおちの疼痛などの症状は、PM不全によるものだった。

 PMを埋め込んだのはフォンタン転換手術をした時で、手術後のおいらの心臓は自己心拍が40以下となっていた。その状態のままではすぐに全身がうっ血し、多臓器不全を起こしてしまう。だからPMで心拍を調節してあげる必要があった。PMの埋め込み方法としては、一般的によく行われるリードを鎖骨下静脈から挿入する方法と、その方法が何らかの理由で行えない場合として心筋に直接電極を固定する方法がある。おいらの場合はフォンタン転換手術と合わせて行ったこともあり、後者の方法がとられた。どちらがメリットがあるかはよくわからないが、後者はジェネレータを腹部に埋め込み、開胸手術によってリードを心筋に挿して固定する必要があるため、より難易度が高い。それはつまりリードを交換する際にも、再び開胸手術を行う必要があるのである。

 PMにはペーシング(刺激)とセンシング(感知)の役割がある。また、リードは心房か心室に一本だけ挿す(シングルチャンバー)と心房心室両方に挿す(デュアルチャンバー)の二種類がある。おいらのPMはデュアルで心房心室それぞれのペーシングとセンシングを行なっている(厳密にはその時の設定で異なる)。そのため、PM不全と一言でいっても、心房心室それぞれでペーシング不全(PMは刺激を送っているが心臓が反応していない場合)とセンシング不全(心臓の自己心拍をPMが感知できていない場合)がある。おいらの場合は、心房でのペーシング不全が起こっている状態だった。

 実は、おいらが将来心房性ペーシング不全になる可能性は、すでに埋め込み当時から予測できることだった。埋め込み時、おいらの心房の心筋はどこにリードを挿しても反応せず、反応する部位を見つけるのに相当苦労したらしい。後日妻から聞いた話では、手術の途中で執刀医が説明に訪れ、「もうどこも反応しなくて、ずっと胸を開いたままにしているんです」と困り果てている様子で、その外科医の目頭は長時間拡大鏡か何かをかけていた跡がくっきりと残り、皮膚がズルむけていたそうだ。そんなわけで、おいらの心房心筋は、土台からペーシングに反応しにくい状態になっていたのだ。ようやくなんとか反応する部位を見つけることができペーシングが機能したが、その後年月が経つにつれ反応が悪くなり、徐々に刺激電圧を上げて持ちこたえていた。

 今月6月の頭にいよいよ体調がしんどくなり、病院の救急に駆け込んだ。一通り検査するとやはり心房性ペーシング不全となっていたため入院になった。幸いその時もPMの電圧を上げる設定に変更したことで、反応するようになった。しかし、それから一週間後、また同じような不調が現れた。今度はペーシング不全に加え、センシング不全、さらに心房粗動まで発症していた。今度はPMの電圧を最大にしても反応せず、医師の顔からも明らかに落胆の表情がうかがえた。とりあえず心房粗動を電気ショックで止めて、その後また設定変更してみることになった。おいらが鎮静剤の眠りから目覚めた時には心房粗動も止まり、運よくペーシングにも無事反応するようになっていた。

 今現在、一応PMは機能している。しかし、最近の不安定な状況を考えると、いつまたPM不全に陥っても不思議ではない。医師の説明では、PM不全を回避するためには、抗不整脈薬を変えたりして不整脈が起きないようにする、アブレーションで不整脈を治す、あるいはリードを交換するしかないそうだ。電圧を上げ続けたことで、ジェネレータの電池もかなり消耗してしまっており、一年以内に交換が必要になった。しかし、新しい電池に交換しても、PM不全は解消できないそうだ。抗不整脈薬やアブレーションも不整脈を根治できるわけではなく、そもそも不整脈が起きなくてもPM不全になりうる。結局根本的にはリード交換しか方法がない。しかし、それには非常に困難な手術が待ち受けている。果たしてそれを引き受けてくれる外科医はいるのだろうか。おいらの運命はこのわずか20gの小さな装置にかかっている。

 

注) PMをPrime minister(首相)と置きかえると、とんでもない文章になります。

身体の幸せと心の幸せには50°Cの差がある。

おいらの住む南の島は梅雨の中休みに入り、この数日は日中30°C前後になるようになった。30°Cとなれば、一般的には汗ばんで暑さが鬱陶しい陽気だが、おいらにとってはすこぶる心地よい。もちろん、おいらにとっても30°Cは暑い。でも、寒さで体調を崩す心配がないのだ。寒さは本当に体にこたえる。日中30°Cにもなる今でさえ、朝方の冷えで苦しくて目が覚め、そのまま午前中は体の不調をひきづってしまうことがある。とはいえ、心地よい陽気になったおかげで息苦しさやだるさもだいぶ緩和され、自粛緩和と相まって平穏な日常に戻った感覚を人一倍強く感じることができた。

 そんな寒さに弱いおいらだが、南の島に移り住む前は本州では最も気温が低くなることがある山地高原に住んでいた。冬の最低気温は−20°Cを下回ることが度々あり、日中の最高気温も−10°Cを上回らない日々が続いたりもした。そんな寒い地域だと、さぞ北海道のように家の暖房設備が充実しているかと思うが、おいらが住んでいた家に限っては、二重サッシもなく床に断熱材もない築50年近いボロボロの平屋だった。だから冬場は家中の窓が凍り、玄関の扉も凍り、暖房のついていないトイレなどでは0度以下になった。南の島でさえ寒いのに、今思えばよく生きていたと思う。

 実際、生きていられない状況だったため、度々体調を崩し入院した。寒さだけが原因ではないが、おいらの心臓が不調になり始めたのもその家に住んでいた時からだった。不整脈が頻発し、蛋白漏出性胃腸症になり、全身が浮腫み、そしてついにフォンタン再手術に至った。おそらく、そんな寒い環境に住んでいなかったとしても、すでにおいらの心臓はかなり限界に達しており、いずれそれらの症状は出てきていただろう。しかし、寒さが最後のトリガーになったかもしれないとも思いもする。ほとんどゆとりのない心臓に、追い討ちをかけるようにダメージを与えてしまったのだ。

 でも、おいらはその地域に住んだことを全く後悔していない。それどころか、もし可能ならまた住みたいとすら思っている。闘病体験やその他のことでもものすごい辛い経験もしたが、一方でそれ以上に楽しく幸せを感じていた。食べ物はとんでもなく美味しく、水も空気も信じられないほど綺麗で、研究環境も恵まれて思う存分研究ができ、ちょっとドライブすれば有名な観光地が周囲にあちこちあり、温泉も入りたい放題だった。そして闘病生活を送った病院は、言葉に表せないほど素晴らしい病院だった。しかし残念ながら期限付きの研究職が切れたため住み続けることが叶わず、約8年の生活の後次の職を求めて南の島に移ることになった。

 身体のことを思えば、南の島に移住したことは本当に幸運である。それなのに、今でもあの極寒の地の生活を思い出してしまう。もしこの先の人生で、また大きな手術を受けることになったら、できることならまたあの病院で受けたいと願っている。そしてその時が来れば、またあの地域に戻って住むのが密かな夢だ。30°Cの環境でさえ寒さが辛い今の身体には、−20°Cの環境に戻ることはもはや自殺行為であろう。でも、おそらく決して人並みには長くはない残りの人生において、身体の快適さと心の喜びどちらが大切なのだろうか、と迷っている。

頑張ることの断捨離

気づけば丸々1ヶ月このブログを更新できずにいた。理由はいくつかある。一番大きな理由は、ゴールデンウィーク前にうっ血性心不全を発症してしまい、GWは入院しその後も息苦しい日々が続いたためだ。入院前と入院中は、実に息苦しかった。特に夜中から午前中にかけてがひどく、夜は何度も溺れたような感覚がして目が覚めた。目が覚めた後は体を起こして深呼吸を続けたが息苦しさは治らなかった。そんなわけで、夜中は息苦しさで目を覚ますことを何度も繰り返し、まともに睡眠が取れない日々が続いた。睡眠不足が何日も続くと、常に頭がボーっとしてフラフラし、すごく眠くてあくびも出るのだが、なぜか眠すぎて眠れないという恐ろしい状態になった。

 うっ血性心不全になると、肺に水が溜まってしまい呼吸困難になる。GWに入院した時は、ともかく溜まった水を抜くために、連日一日2回利尿剤(フロセミド)を点滴から投与された。毎日2500mlほどの尿が出たおかげで、少しずつ息苦しさが和らいである程度眠れるようになってきた。そのため入院期間は5日間で済んだが、退院後も体のだるさや息苦しさは残った。だから退院したとはいえ、少し起き上がって動くだけで、すぐに疲れて苦しくなってしまい、ほぼ一日中横になって過ごしていた。

 今までのおいらだったら、この程度の短期間の入院や苦しさはなんて事なく耐えられていただろう。しかし、今回は精神的にもかなり衰弱してしまった。それは今年1月に死ぬ苦しみを味わった心室細動の入院に受けた精神的ダメージをひきづっていたこともある。起きていても寝ていても何をするにも息苦しく気力が湧かず、体がだるいのがとても辛かった。なんでこんな辛い思いをして生きているのだろう。なぜ生きるだけでこんなに頑張らないといけないのだ。苦しみに耐え頑張って生き続けるのに疲れてしまっていた。もはや涙すら流れないほど逃げ場のない追い詰められた気持ちになり、すがる思いで姉にメールを送った。

 

GWに心不全で入院してた

その頃から精神も弱ってしまったみたい

一日中だるくて気力がわかない

すごく眠いのに眠れない

気を失いそうな感覚

頑張って生きているのが辛い

だれかにもう頑張らなくていいといってほしい

でも生きている以上頑張らないといけない

寝るのも頑張る

起きるのも頑張る

食べたいもの飲みたいものも我慢して頑張る

出かけるのも我慢して頑張る

仕事も頑張る

明日も頑張る

頑張るだらけ

頑張らずにやれるものが何もない

 

しばらくして姉から返事が来た。

辛いね

ひとつづつ減らしていったら?

頑張りたいと思うものは残す

食べることなのか

仕事なのか

 

 姉からのメールにはこの後にもさらに愛情こもった言葉が続いていたが、おいらにはこの最初の5行が一番心に響き救われる思いだった。そう、減らしていけばいいのだ。おいらは頑張ることが辛いと思いながら、頑張ろうとし続けていたのだ。全てを頑張る必要はない。全てをうまくやらなくて良い。そう思えたら、すっと気持ちが楽になった。あとは頑張ることを断捨離していくだけだ。

 早速おいらは断捨離を実行した。今年1月から始めたツイッターをやめ、依頼されていた論文査読を断り、仕事もネット会議など疲れることは全て断った。なんならいつ仕事やめてもいいやと思うことにした。このブログも、間が空いてもいいし、内容がうまくまとまってなくてもいい。もう他人の評価も期待も気にしないのだ。そうして頑張らなくていいものを削っていけば、自分が最も大切に想うことが最後に残るはずだ。

 それが何かはまだ到達できていない。だから今も断捨離が続いている。でも一つずつ減らしていくと、息苦しさも少しずつ和らいでいく気がした。あ、でも勢い余って10万円の給付金申請書類は捨ててしまわないようにしよう。

VAC to the future

少し古い話だが5年前のTCPCフォンタン転換手術の時について、再び思い出話をしたい。 これまでに術前から一般病棟までの過程は以下の記事でお話しした。 

入院前:避けられない手術

入院後手術まで:人工心肺、結構心配

手術の状況:血の海を渡ると地獄

手術直後:ひとりじゃない

術後ICU永遠に続く砂漠

一般病棟帰還: ICUは命のゆりかご

一般病棟での生活:水と緑の豊かな病室

 

 こう整理すると、もうすでに語り尽くしたような感じもするが、今回は術後しばらくして起こった縦隔炎の話である。この話はすでに「水と緑の豊かな病室」の記事の中である程度書いているのだが、その詳細について記録のために記しておきたい。

 縦隔とは肺・大動脈・胸骨等の間にある空間を指し、その空間に炎症が起こったものを縦隔炎と呼ぶ。心臓・大血管手術後に1%ほどの割合で生じる重篤感染症とされる。もし細菌が縦隔周囲にある人工血管などの人工物に付着すると、抗生剤が効かずそこを苗床にして感染症が悪化してしまう。最悪再手術をして人工物を全取り換えしなくてはいけなくなる。

 タイトルにあるVAC (Vacuum Assisted Closure療法システム)とは、陰圧閉鎖療法のためにKCI社が開発した装置の名前であり、おいらは縦隔炎治療のために通算3ヶ月ほどお世話になった。それで陰圧閉鎖療法とは何かと言うと、肉がむき出しになる程のズタズタな創傷を受けた場合に、その治癒を促進させる治療法である。あまりにひどい創傷は、自己の治癒力だけでは完治が極めて困難である。そのまま放置していれば創部から新たな感染症にかかるリスクも高いため、なんとか治癒を促進させようとこの治療法が編み出された。原理は比較的単純で、創部を保護材とフィルムで密閉しひたすら吸引することで、肉芽の成長を促進させるというものだ。つまり、傷の部分を吸って吸って吸い続けるというわけである。

 おいらがこの装置を使うことになったきっかけは突然訪れた。TCPCフォンタン転換手術10日ほど経った時だった。すでに数日前にICUから一般病棟に戻り、介助して貰えば車椅子でトイレまで行けるまでになっていた。おいらは大きい方の用を足そうと力んでいると、胸の手術痕のところからヌルヌルと黄色い液体が垂れてきたのだ。一瞬こんなところからおしっこでも出たのかと馬鹿げたことが頭によぎったが、すぐ冷静になって手術痕を見てみると、傷に貼り付けたフィルムの内側にたっぷり液体が溜まっていた。液体は止まる様子がなく収まりきれなくなった分が隙間からあふれ出ていた。

 検査の結果、手術痕から感染症が起こり縦隔炎になっていることが判明した。CRPが9以上に跳ね上がり、血液培養検査により血中内に細菌の存在が確認されたため、すぐに抗生剤点滴治療が始まった。さらに創部を切開し、VACを用いて膿を吸引し続けることになった。

 VACをやるには心臓外科医や循環器内科医だけでは専門外であったため、整形外科の医師が呼ばれた。おいらは彼らに囲まれながら処置室に運ばれ、創部に局部麻酔を打たれ、メスで切開された。膿は手術痕に沿って2箇所から滲み出ており、それぞれ切開された。切開は胸骨がむき出しになる程深くなった。膿んだ肉はすでに神経が通っておらずあまり痛みを感じなかったが、逆に正常な肉は切るときに鋭い痛みが襲った。そしてVACが装着された。VACは初期の携帯電話のほど大きさで、持ち運びができるよう専用のショルダーバッグがついていた。整形外科の医師が、傷口の形に合わせ、スポンジ状の黒い保護材を切り取り、傷の上に被せていった。その上から密閉されるようにフィルムを貼り付けた。フィルムの中心部分にはチューブが繋がっており、中の空気が吸いだせるようになっている。チューブをVACに繋げ電源を入れスイッチを押すと、フィルム内の空気が一気に吸い込まれ、胸がきゅうっと痛くなった。

 VACのフィルムと保護材は3日に一度新しいものと交換した。その度に創部を消毒し、創部の穴深くにピンセットを差し込んでほじくられた。何度か切開を追加し、最終的には切開部分が10cm以上になった。一番きつかったのは胸骨を縛るワイヤーの一本を引き抜いたことだ。切開処置は、毎回処置室という名の拷問部屋に連れていかれてされる。おいらはおぞましい拷問の間、看護師さんの目を凝視して助けを乞うた。別の看護師さんはおいらの手を握ってくれて、おいらも恐怖に打ち勝とうと強く握り返した。もう相手が誰であろうとともかくすがりたかった。そのくせ、処置が終わり自分の病室に戻った時は、ダースベイダーの拷問から戻ってきたハンソロになったつもりで、「耐え抜いたぜ」と家族の前では余裕をかました。

 最終的には、電源が必要ないバネ式の小型な装置に交換され、退院後もひと月ほどつけ続けた(*1)。最初の頃は膿が1日に200〜300mlほど吸い出され続けたが、徐々に膿が出なくなり、傷も小さく閉じていき、人工物への感染の恐れもなくなった。おいらの未来はVACによって切り開かれたのだった。

 

*1 この時は入院時と退院後の2ヶ月で終わったが、その半年後再び縦隔炎を起こし、また一ヶ月ほどつけることになった。